明治16年(1883年)11月、久松定謨は秋山好古を伴いフランスに留学する。 |
松山城は、道後平野の中央に屹立せる勝山の頂にあり。慶長七年、加藤嘉明の築く所にして現に国指定重要文化財に推され、我が松山市の象徴たり。加藤氏転封の後、寛永十二年、久松定行、封を此処に受く。爾来版籍奉還に至るまで二百有余年、治績大に挙り、藩民堵に安じ、市運亦振ひ、俊秀の士を輩出せり。明治維新の後、城廓廃毀の令に接せしが幸にその厄を免れ、終に大蔵省所管となる。伯爵久松定謨、家を承け陸軍中将に任ぜらる。松山市に帰住するに及び、巨資を捐てゝ城山全部の下附を請ひ、更に維持金若干を添へて松山市に寄せらる。実に大正十二年なり。依て市はこれを松山公園とし、四時行楽の所となす。伯の志、真に篤しと謂ふべし。嗚呼勝山の松、鬱として晩翠を含み、拓川(石手川)の水淙々として長へに流る。その令徳を頌するにあらざらむや。石を建て勒して不朽に伝ふ。 昭和丗年十月 久松定謨伯顕彰会建之 |