愛媛県指定記念物(史跡)
栗田樗堂(1749〜1814)は、松山松前町の酒造業後藤家に生まれ、後に同業の栗田家に入夫、家業をもりたてる一方、町方大年寄としても活躍した。俳人としても、加藤暁台に師事し、芭蕉復興運動に尽くすなど俳壇をリードする活躍で、小林一茶をはじめ、多くの俳人が樗堂を訪ねている。 庚申庵は、寛政12年(1800年)、樗堂が「市中の隠」を求めて建てた草庵である。この地に以前小さな祠があり、古庚申と呼ばれていたこと、また建てたのが庚申の年であったことから、庚申庵と名付けたという。樗堂は、ここでもっぱら俳諧の道に精進し、「庚申庵記」をものした。その後樗堂は安芸の国御手洗島に移り、65歳で没した。 現在、庚申庵は公有化され、平成12年(2000年)から3ヵ年かけて復元、往時の姿を甦らせている。建物南側には風雅な庭園があり、毎年4月末に咲くフジの花は見事である。
松山市教育委員会 |
天明時代(1781〜1789)の俳壇に、その名を知られた俳人栗田樗堂が寛政12年(1800年)この地に営んだ草庵である。樗堂は寛延2年(1749年)に豪商豊前屋、後藤昌信の三男として生まれ、同じ酒造家の栗田家に入夫した。 樗堂は加藤暁台の高弟で、俳友には小林一茶、井上士郎らがあり、一茶は樗堂を敬慕して2度訪ねて来ている。
松山市教育委員会 |
天明7年(1787年)、樗堂は京都に上り、加藤暁台に学ぶ。『つまじるし』 亨和2年(1802年)、安芸国御手洗島(現:広島県呉市豊町御手洗)に芭蕉塚を訪ねる。 |
『諸国翁墳記』に「誰彼塚 藝州御手洗滿舟寺内 社中建 海くれて鴨の聲ほのかに白し」とある。この「誰彼塚」は現存する。 |
寛政7年(1795年)1月15日、一茶は栗田樗堂を訪ねる。 寛政8年(1796年)、一茶は再び四国に渡り、樗堂と両吟歌仙を巻く。 文化4年(1807年)頃、御手洗島に移住。 文化7年(1810年)5月、倉田葛三は九州行脚の帰途、御手洗の二畳庵を訪れている。 文化11年(1814年)、『万家人名録』(第五編)のあとがきを書く。 |
昭和51年(1976年)8月25日、金子兜太は一草庵と庚申庵を訪ねている。 |
南海放送の土居俊夫さんに連れられて、山頭火の一草庵と栗田樗堂の庚申庵を訪ねる。
『金子兜太戦後俳句日記』 |