2020年愛 媛

満願寺〜碑めぐり〜
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今治市朝倉下甲に満願寺という寺がある。

四国三十六不動尊霊場第21番札所。

大 門


天平6年(734年)、道慈律師によって開創された。

英霊堂


右手に森白象の句碑があった。


いく度もしくれし月の庭に立つ

 昭和59年(1984年)4月、森白象は弘法大師御入定千百五十年御遠忌を奉修。

満願寺第三十三世星野敬昌が「弘法大師入定千百五十年御忌記念」に建立。

薬師堂


高野山真言宗の寺である。

鐘 楼


実盛供養塔について

藤原北家の家系の流れをくむ斎藤別当実盛は天永2年(1111年)越前国河合荘(福井県)に生まれた。父は河合斎藤次郎則盛、幼名は助房、長じて武蔵国長井荘(埼玉県)長井斎藤太実直の養子となり、長井斎藤実盛と改名、源氏頭領源義朝に仕える。

保元・平治の乱に出陣、武勇を轟かせて保元・平治物語に喧伝される。源氏没落後は平家に転じ、平宗盛に仕えて関東の平家荘園管領別当職となる。

やがて源氏が再興するところとなり、寿永2年(1183年)5月、平家は木曽義仲の軍勢を加賀国篠原の地に迎え討ったが、この時、実盛は白髪を染めて出陣、ここを死場所と定めて奮戦し、壮烈な討死を遂げた史話(平家物語・源平盛衰記)は余りにも有名である。

平家滅亡後の文治元年(1185年)、実盛の嫡孫長井斎藤景忠は伊予初代守護職佐々木三郎盛綱に従って伊予に来国し、府中朝倉郷に居館を構え、のち当山に崇祖実盛公の供養塚を祀祭したものである。

鐘楼の前に芭蕉の句碑があった。


むさんやな兜の下のきりき里寸

出典は『奥の細道』。

 元禄2年(1689年)7月24日(陽暦9月7日)、芭蕉は金沢より小松へ入る。翌25日、多太神社に詣でる。27日、山中温泉に向う時に再び多太神社に詣で、句を奉納。

 昭和55年(1980年)3月、実盛供養塚が愛媛県有形文化財に指定されたことを記念して建立。

森本之棗の句碑もあった。


牡丹くするゝ天地洞然たる中に

この句の碑は実盛塚にもある。

神 殿


神仏混交の寺である。

神殿の天井絵


納経所の前に富安風生の句碑があった。


野牡丹散華無常とはかく美しき

昭和56年(1981年)12月、建立。

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