川之江市指定文化財
この鳥居は八幡神社が畠山から現在地に奉遷されたとき、大庄屋三宅七郎右衛門家経によって献ぜられたものである。慶安4年(1651年)の作で、一石づくりの笠石が特徴となっている。規模、古さともに現存する鳥居としては全国で二番目である。 形式…明神型 高さ…約5メートル 幅……約3メートル
川之江八幡神社 川之江市教育委員会 |
遡る事弐百年、天明の昔、煙草屋喜兵衛、竹屋清兵衛を中心として村人達は、山田郷総鎮守川之江八幡神社に太鼓橋を奉納した。現存する橋としては県下に類を見ない立派な石橋であったが、此の度の宮川改修工事に伴い、橋の架け替えの已む無きに到った。目出度く完成を見たが、神社総代、並びに市当局の献身的な御協力があった事を銘記すると共に、従来の石橋は、亀島への通路に架け替えた事を付記して置く。
川之江八幡神社 宮司 竹内久明
禰宜 竹内光彦 昭和五十七年五月吉日 |
御祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと) 足仲彦命(たらしなかつひこのみこと) 気長足姫命(おきながたらしひめのみこと) 御由緒 川之江を詠んだと言われている歌が万葉集に出ている。 橘の島にし居れば川遠み曝さで縫ひしわが下衣 また川之江は太政官道の宿駅としても栄え、近世に至っては土佐・金比羅両街道の接点にも位置し、常に瀬戸内文化圏の中心地として発展してきた。 宮文書によれば、八幡様は推古天皇6年(598年)に宇佐本宮より御分霊を勧請し、当地切山にお祀りしたのが始まりとされている。 その後、源頼義により康平7年(1064年)が畠山山頂に遷宮されたが、長宗我部元親の手で焼かれた。正保3年(1646年)の火災を経て現在地に遷宮された。嘉永4年(1851年)、3度目の火災に見舞われ、随神門を残し全焼した。 安政5年(1858年)巨額の費用と8年の歳月を要して、現在の八幡神社が再興された。 完成を祝い10日間にわたり芝居が行われ盛況をきわめ、また3月26日には松山藩主松平隠岐守が数百の列をなし参拝したとも伝えられている。 |
第8歌集『砂丘』に「下野より信濃へ越え蓼科山麓の春日温泉に遊ぶ、歌四十五音」として収録の歌。 |
ここにして窓に入る山みな青しまして風吹く燧灘より | 鉄幹 |
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少女達錦の袴にまさりたる山のこころに包まれてあれ | 晶子 |
この建物は「旧川之江藩一柳陣屋門」の遺構である。江戸初期の乳児門様式を知る上からも極めて貴重で、末永く後世に伝えるものとして、この度文化庁より登録有形文化財に指定された。 |