鍵谷カナは、伊予絣の考案者である。
カナは天明2年(1782年)、温泉郡垣生村今出(西垣生町)に生まれた。小野山藤八に嫁ぎ、当時農家の副業であった伊予結城(伊予縞)という縞木綿の生産に従事していた。
享和年間(1801〜1804)、新しい絣模様を織る方法を考案した。藁屋根の葺替えの際、煤竹に縄目の跡があるのにヒントを得たとか、諸説がある。はじめ青草の汁で糸を染め地機で織ったが、のち藍染を採用し、菊屋新助が考案した高機を使用して絣を織り出すのに成功した。最初はその地名によって今出(いまず)絣と呼ばれたが、普及に伴い伊予絣としてもてはやされ、全国に知られるようになった。
カナは元治元年(1864年)、82歳で没した。墓碑の「慈光妙照信女」がカナの戒名、傍らは夫の戒名である。
松山市教育委員会
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鍵谷媼遺徳顕彰歌碑

やちとせもいで湯の誇伊予絣鍵谷かな女乃遺徳なりけ里
両側面に子規の句が刻まれている。
左側面
ここは今出鹿摺とて鹿摺を織りだす処也
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花木槿家ある限り機はたの音
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出典は『散策集』。
明治28年(1895年)10月7日、子規は人力車で今出(いまず)の村上霽月を訪ねた。
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『寒山落木 巻四』(明治二十八年 秋)に収録。
右側面
おもしろや紙衣毛著ずに済む世なり
『寒山落木 巻五』(明治二十九年 冬)に「今出飛白の発明者鍵谷かな子の功徳を彰さんとて伊予郡の人より句を乞はれて」とある。
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明治2年(1869年)8月9日、村上霽月は愛媛県伊予郡西垣生(現・松山市西垣生町)に生まれる。
明治28年(1895年)11月、上京中に根岸の子規庵を訪ねる。
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昭和21年(1946年)2月5日、78歳で逝去。
長楽寺に村上家の墓がある。
村上半太郎霽月の句碑

頼まうと呼べば落ちけり桐一葉
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花散るや一鳥鳴かず聲の音
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村上霽月の句碑

密乗の門太白花仰き入る
碑陰の句

太白能花暁の磬涼し
(たいはくのはなあかつきのこえすずし)
太白はサツマイモの在来品種の1つ。外皮は紅色、中は白色だそうだ。
伊予七福神弁財天堂

芭蕉の句碑

ものいへば唇寒し秋の風
出典は『芭蕉庵小文庫』(史邦編)。
貞亨元年から元禄年間の句。
『蕉翁句集』(土芳編)は「元禄四未ノとし」とする。
平成24年(2012年)、建立。
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