河東碧梧桐は全国旅行をして、いわゆる「新傾向俳句」をすすめた。その途中、明治43年(1910年)8月11日当地の三津水戸鳥会の大会に参加、出席者は一修・雷死久・連翠・隣仏と碧悟桐で、そのときの碧悟桐の句。その前に隣仏とあるのが当時の定秀寺住職で、その句は「納涼更けて子授け星の行く頻り」であった。 |
八月十一日。晴。 三津水戸鳥会の大会に列した。(伊予松山にて) |
納凉や養魚餌食みの汐満ちて | 一修 |
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葮川に野良鵜鳴く門納凉かな | 雷死久 |
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納凉詣り走り咲く草夜白みて | 連翠 |
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納凉更けて子授け星の行く頻り | 隣仏 |
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銀杏寺をたよるや御船納凉の日 | 碧悟桐 |
石田波郷(1913〜1969) 松山市西垣生町の定秀寺門徒、石田惣五郎・ユウの次男(本名哲大)として生まれる。松山中学校時代に五十崎故郷に指導を受けたのち上京、水原秋桜子に師事。常に俳句に精進、戦後俳壇の担い手、現代俳句を代表する俳人となった。生涯の大半を結核の療養に過ごし、病気との闘いを通して自分と命を見つめる句を多く詠みついでいった。この句は昭和27年(1952年)の作。 本願寺第二十四代ご門主ご巡回記念に植えられた印度菩提樹の後ろにある自然石に句碑がある。石田家は定秀寺の門徒であったことから、句碑が建てられた。
松山市教育委員会 |