昭和10年(1935年)5月2日、高浜虚子と星野立子は石手川の上流へ案内された。 |
四月二十六日。石手寺、湧ケ淵(わきがふち)吟行。 線香の煙にあそぶ蝶々かな 山藤に大きな虻や淵の上 |
昼食前に一寸石手川の上流へといふ晋平さんに連れら れて自動車を馳せて湧ケ淵迄ゆく。岩堰、湯の山、湯の 元温泉等と教へられる。 山藤は咲きぬ木の間の石手川 |
松山城築城の際し、足立重信が城下を洪水から守るため、約200mの岸壁を大勢の工夫で掘り割り、石手川の水路を南西に変える工事を行った。 |
鮎寄せの 堰音涼し 寶川 |
『道後温泉話題』に「岩堰より近き東野には鵜匠部落もあって藩公の鵜飼も行はれ居たのも三世紀以上昔の事である。」と書かれているそうだ。 |
囀(さえずり)や 天地金泥に 塗りつぶし |
喜舟は金沢生まれの俳人。 俳句は松根東洋城の指導を受け、大正4年2月、東洋城主宰「渋柿」創刊とともに同人となり、後主宰する。 「囀」は春の季語。「明るく方々で囀っている小鳥たちの声は、まるで金粉をにかわでとかした金泥を、あたりはおろか、天地いっぱいに塗りつぶしたようだ。」というような意味の句である。 松山市教育委員会 |
考えを 直せば ふっと出る笑い |