鎌倉の むかしを今に 寺の鐘 |
本名・久太郎。高松市生まれ。伊予鉄に永く勤め、川柳は、東京の窪田而笑子の高弟。話術に長じ、NHKを通じ伊予弁丸出しの「伍健弁」での「川柳角力」で大きな人気を得た。俳画にも長じ、また、丸みのある文字は氏独自のもの。野球拳は、氏のはじめたものである。 昭和33年10月20日、建立。寺の鐘は建長3年(1251年)の銘があり、鐘楼は元弘3年(1333年)再建でいずれも鎌倉時代のもの。ともに国の重要文化財。
松山市教育委員会 |
大正13年の秋、高松の屋島グランドで実業団野球があり、高商クラブと伊予鉄クラブが対戦して8対0で負けた。その晩、高松での懇親会の席で前田伍健(伊予鉄副監督)の即興で作詩作曲をした。之が野球拳おどりである。 |
うれしい古とも かなしい古とも 草しげる |
昭和9年(1934年)7月1日、小郡の「其中庵」で詠まれた句。『其中日記(六)』に収録。 |
東漂西泊歩々佛土酒の喰べ歩行禅に暮れ句を吐いた自由律俳人山頭火。 自らの終えんの地を俳都松山と定め、昭和14年暮れ、親友大山澄太先生外多数の俳友知人の暖かいはからいで、御幸寺境内にわび住い一草庵を結び、終生の地と定めた。翌15年10月11日、この一草庵で俳友知人の句会柿の会の句声を聞きながら永遠の旅へと「コロリ往生」して行ったのである。 温泉をこよなく愛していた山頭火は入浴の帰途当寺を訪遊し「この水はうまい」とあびるように又酒を飲むが如くにこの水を痛飲してごろりと昼寝をむさぼったものである。 没後50年を記念し、このような山頭火を偲び、彼の久遠の幸を祈りながら山頭火ゆかりの此寺地地蔵院に碑を建立する。 平成2年蝉しぐれを聞きながら |