明治28年(1995年)9月20日、日清戦争から帰還療養中の子規が、友人柳原極堂とともに石手川に沿って石手寺を訪ねた。たんぼの稲の花もたわわなころの51番札所の石手寺での感懐。『散策集』中の句。 昭和13年(1938年)遍路橋ほとりに自筆を拡大して建て、後ここにうつした。
松山市教育委員会
俳句の里 道後コース14番 |
昭和9年(1934年)7月1日、小郡の其中庵で詠まれた句。『其中日記(六)』に収録。 |
昭和6年(1931年)11月3日、与謝野寛・晶子夫妻は石手寺に参拝している。 |
伊豫の秋石手の寺の香盤に海のいろして立つけむりかな 別るべき伊豫の港よ松山の古町(こまち)の雨にぬれつこぞこし
「緑階春雨」 |
昭和9年(1934年)、中村草田男は松山に帰郷。石手寺を訪れている。 |
石手寺にて 夕風や乞食去りても遍路來る
『長子』 |
明治28年(1995年)9月20日、日清戦争から帰還、二番町の愚陀仏庵で夏目漱石と同居、療養中に子規が柳原極堂とともに石手寺を散策した時の句。その時拾った御くじは「24番凶 病は長引く也」とあり、「わが身にひしひしとあたりたるも不思議なり」と『散策集』に当日の感懐を記している。
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俳句の里 道後コース15番 |
石手寺 秋風や何堂彼堂彌勒堂 石手寺 護摩堂にさきこむ秋の日あし哉
『寒山落木』(巻四) |
四月二十六日。石手寺、湧ケ淵(わきがふち)吟行。 線香の煙にあそぶ蝶々かな 山藤に大きな虻や淵の上 |
四月二十六日。 石手寺の廻廊涼し山の蝶 この句を見ると、その時の石手寺に這入つて行つた時 のことを思ひ出す。古い絵馬が廻廊に高くあつたのも思 ひ出す。お遍路さんが沢山来たり行つたりしてゐたので ある。 子を背負つた遍路、本堂をめぐつて小さな堂が沢山あ る。そのどのお堂へも一つ一つ丁寧に、お米を一つまみ づゝそなへては拝み拝みしてゆく遍路。多くの遍路の憩 んでゐる堂縁…… 遍路笠荷と置いてあり遍路ゐず はき変へて足袋新しき遍路かな お四国の地図壁にあり堂の春 本堂の前…… 春風や上げし線香の燃えてゐる 拝みつゝ遍路まなこをつむりける |
松山藩主松平貞直の藩医青地彫棠が、元禄5年(1692年)12月20日(太陽暦2月25日)、芭蕉・其角・桃隣・黄山・銀杏を迎えて連句の会を催したとき、席上に梅椿いけてあるのを見て芭蕉の詠んだ発句である。「花器にいけた梅椿に春の訪れを探ろう」という意味の句で、これをこれを彫棠は門人の越智擲瓢(てきひょう)に伝え、その孫青梔(せいし)が明和7年(1770年)芭蕉没後77年に石手寺の境内に埋め「花入塚」を建てて、同名の俳書を刊行した。
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俳句の里 道後コース16番 |
昭和21年(1946年)11月12日、星野立子は石手寺へ。 |
十一月十二日。父と兄は俳諧文庫の用で朝から出かけ る。私は石手寺へ。いつも遍路の多い春に来てゐた石手 寺の感じと又違つた静かさを覚える。 石手寺の塔見えて来し柿紅葉 石手寺は石蕗の花咲き人稀に |
昭和26年(1951年)9月16日、高浜虚子は鮒屋に着き、石手寺に行く。 |
九月十六日 道後鮒屋著 石手寺に行き地蔵院に小憩住僧におく る こゝに住み泥鰌鮒など友として |
昭和26年(1951年)9月20日、石手寺で松山玉藻会。 |
九月二十日 松山玉藻会 石手寺 石榴赤しふるさとびとの心はも |
以前は夏目漱石や正岡子規等多くの名士が落書きして、一名落書堂とも言われていたそうだ。 |