淡紅主催の鹿島行に加った。鹿島は北条(松山より北四里ばかり)の前僅に一葦水を隔つる小さな島である。島は周囲一里にも足らぬ小さな者であるけれども、結飯形のかなりの山をなしておって、比較的海陸の眺望に富んでおる。全山楠松などでこんもりと茂っておる。それに昔から野生の鹿が沢山栖んでおるのも不思議の一に数えられつつある。 |
−この俳句は、俳優「渥美清」さんが鹿島で詠んだ句です− 寅さんで知られる俳優「渥美清」さんは、鹿島を生前「第二の故郷」としてたびたび来島し、宿泊しました。親友であった北条出身で「花へんろ」の作者である早坂暁さんに連れられて鹿島を訪れた渥美さんは、名物の鯛めしに舌鼓を打ち、島の時間を楽しんだそうです。 句碑の文字は、早坂暁さんの書です。 |
〜この句は、北条出身の作家・脚本家の早坂暁さんの作品「花へんろ」で詠まれた句です〜 「花へんろ」は、風早・北条の遍路道に面した商家を軸に、激動の昭和時代に翻弄される庶民の生活を、遍路や俳句を交えながら叙情豊かに描いた作品です。昭和60年〜63年及び平成9年にNHKドラマとして、全国の視聴者の感動を呼びました。 また、舞台化もされ、小説としても発表されました。 |
当社は武甕槌神(たけみかつちのみこと)・経津主命をお祀りした神社で、神功皇后が三韓征討の途中、風早の浦、鹿島にとめて、戦勝と道中の安全を祈願して出陣したと伝えられている。 |
鹿島に遊ぶ。何十年振りなり 鹿を見ても恐ろしかりし昔かな 十月十六日。鹿島に遊ぶ。何十年振りなり |
この地方では、昔から地底に大鯰がいて、常には静まっているが目覚めてあばれだすと地震となって大地が震動すると考えられていた。 この地震を起こす大鯰の頭を、鹿島の神様が「要石」で押さえているので、この風早地方には地震が少ないと言い伝えられてきた。かたわらの石に次の歌が刻まれている。 ゆるぐとも よもやぬけじな要石 鹿島の神のおわすかぎりは |
仲哀天皇の后、神功皇后は西征の途中、軍船を風早郷の鹿島に止められ、軍備を整えられたといわれ、このとき島の東部中腹、二の平に仮宮を設けられたといわれ、この所を今も皇后の局と呼んでいる。 島の東北海岸一帯は大津地と呼ばれ、昔港のあったところといわれている。神功皇后は髪洗磯に立たれ、御姿を整え、旅装をなされると鹿島山頂の御野立の巌に立たれ、弓に矢をつかえ、沖へ放たれて戦勝を祈願し、大津地の港を出発したと伝えられている。 |
村上壷天子は越智郡大山村(現:今治市吉海町)出身の俳人。本名は万寿男(ますお)。愛媛師範学校(現:愛媛大学教育学部)在学中に、村上霽月から俳句の指導を受けた。 |
大正10年(1921年)、松根東洋城主催の俳誌『渋柿』同人となる。 昭和13年(1938年)、松山市の余土小学校の校長を最後に退職。 昭和17年(1942年)、俳誌『渋柿』の選者となる。 昭和59年(1984年)、没。 |
明治13年(1880年)9月4日、松永鬼子坊は温泉郡雄郡村(現:松山市)に生まれる。本名、詮季、旧姓は島川。 大正5年(1916年)、『渋柿』創刊とともに同人となり、松根東洋城に師事する。 昭和46年(1971年)2月5日、90歳で死去。 |
鹿島は周囲一里あまりの島なれども、樹木鬱蒼として茂り、島中猶数十頭の鹿棲息せり。この日の薄暮、渡舟の船頭なりし一壮漢、唇を鳴らして鹿笛を吹けば、鹿群山を駆け下り来つてその周囲に集る。或ひは角を突き合せて闘ふものあり。或ひは子鹿を随へて愛撫するものあり。煎餅を与ふれば喜んでこれを食ふ。 翌日島を一周。遠く伊勢の二見に似たる岩あるを見る。 鹿島なる島のめぐりの九十九橋わたりわたりてわれは来にけり |
鹿島の周遊道路路に松根東洋城「鹿に聞け潮の秋するそのことは」の句碑、吉井勇「岩ありて天つ日ありて海ありて伊豫の二見はかしこかりけり」の歌碑などがあるそうだが、現在通行止め。 |
昭和35年(1960年)4月、鹿島に富安風生「撫子も樟の茂りもかしこしや」の句碑を建立したが、後年台風により水没したそうだ。 |
昭和43年(1968年)6月1日、高野素十は鹿島を訪れている。 |
六月一日 松山市 四国芹俳句大会。鹿島 花崗岩安山岩や夏の島
『芹』 |
昭和46年(1971年)4月17日、高浜年尾は鹿島を訪れる。 |
同日 ホトトギス同人会 北条市鹿島国民宿舎 春潮に遊船とばし島めぐる 鈴の音や遍路の磴を登る時
『句日記』 |