穂すゝきやこゝにも一つ塔の址 | 東洋城 |
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小春日や国分寺出て国分尼寺 | 霽月 |
桧垣(雅一)は明治15年(1882年)11月25日、日高村高橋越智家に生まれ、清水村四村桧垣家に入る。愛媛師範卒業後教職に従い、後別宮大山積神社宮司を勤む。 若くして俳句を好み、松根東洋城主宰渋柿派に属し、同派の有力同人となる。又地方に志々満渋柿社を起し、幾多の俳弟子を育成した。 昭和26年秋、弟子ら相謀り翁の古稀を記念して、この句碑を建立し東洋城の来臨を得て除幕した。 昭和42年2月17日、87才を以て没す。 |
昭和34年(1959年)4月8日、高浜虚子は85歳で没。 昭和35年(1960年)10月、比叡山に分骨埋葬。 |
十月十四日 虚子分骨埋葬 叡山横川 はらからに深きゆかりの露の塔 叡山に時雨るゝ墓となりにけり |
昭和35年(1960年)10月、法華寺の句会で十三夜の月を眺め虚子を偲びながら詠んだもの。 昭和44年(1969年)5月、道子を師とする六つの句会建立。 |