それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方になったから、汽車へ乗って古町の停車場まで来て下りた。学校まではこれから四丁だ。訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろう。すたすた急ぎ足にやってきたが、擦れ違った時おれの顔を見たから、ちょっと挨拶あいさつをした。
『坊っちゃん』 |
明治25年春の句。古町は萱町から城北にかけての一帯。城下の中心地で商人町のにぎわいがあった。外側(とがわ)とは武家屋敷街の外側を囲むようにあった大街道、湊町周辺のこと。『寒山落木』より。 |
内藤鳴雪(1847〜1926)教育者。俳句を子規に学ぶ。明治22年に愛媛県初の市として、松山市が誕生したとき、戸数は約7,500戸だった。「鳴雪俳句集」より。 |
明治27年夏の句。夏の松山城は全山緑におおわれ、天守閣の姿がいっそう際立って見える。『寒山落木』より。 |
河東碧梧桐(1873〜1937)明治37年新春の句。明治36年の末から松山に帰省していた。元日に降る雪はその年の豊かな実りを寿(ことほ)ぐ吉兆である。「碧梧桐句集」より。 |
明治32年冬の句。子規は明治28年に松山を発って以来体調が悪化した。そのため、亡くなった明治35年9月まで、帰省していない。寒さの中で望郷の念を詠んだものである。「俳句稿」より。 |
中村草田男(1901〜1983)昭和9年松山に帰省したときの句。ひさしぶりに見上げたふるさとの春の夜空である。『長子』より。 |
明治31年夏の句。明治23年の夏、帰省中の子規は練兵場で出会った高濱虚子たち松山中学生にバッティングを教える。練兵場では野球の試合がよく行われていた。「俳句稿」より。 |
これは松山の北郊にあつて、御幸寺と書いて「みきじ」と訓むのである。岩骨の露出してをる山であつて、稀に松が生えてをる。その山の姿がさも天狗でも棲んでをるであろうと思はれる形をしてをる。此山に登らうとして墜落した者がありでもした處からそんな噂を生んだものであらうか。とにかく私も子供の時分、御幸寺には天狗が棲んでをると言ふことを聞いて、恐ろしく感じてをつたものである。
高浜虚子『子規句解』 |
正岡子規が愚陀佛庵に同居中の明治28年9月23日、夏目漱石が松山城周辺を散策し、抜けるような空にそびえたつ松山城を詠んだ俳句。「正岡子規へ送りたる句稿その一」より。 |