松山市の平和通りには「松山城」や城下周辺に縁のある句が選ばれ、句碑が整備されている。 |
御幸寺山(みきじさん)は松山市街の北部にある標高164.6mの山。昔からこの山には天狗が住むという言い伝えが残り、古来から人々の恐れる山だったそうだ。 |
明治28年9月20日、子規は漱石の愚陀佛庵で療養していたが、いつになく体調がよく、この日はじめて散歩に出た。秋風がここちよかったという。友人の柳原極堂が一緒だった。「散策集」より。 |
明治28年9月20日。愚陀佛庵で療養していた子規は、いつになく心地がよかったので来合わせた柳原極堂と俳句を作りに散策に出かけた。「散策集」142句中の最初の句。 |
明治27年夏の句。山城の廓は北の出城、北廓、高石懸ともいう。慶長7年(1602年)加藤嘉明が城の北側防衛のために築いた。一部が残っている。「寒山落木」より。 |
河東碧梧桐(1873〜1937)明治38年12月冬の句。松山は十五万石の小城下である。城北方面は職人や商人の町でにぎわっていた。「碧梧桐句集」より。 |
伊予鉄道高浜線古町駅まで行くと、正岡子規の「古町より外側に古し梅の花」の句碑があったようだが、平和通り北側を東へ戻る。 |