この句碑は昭和二十五年五月二十八日、愛媛県国立公園内の波止浜公園に建てられた。碑は高さ五尺、横八尺、御影の自然石。今井つる女氏の熱心な提唱により、波止浜句碑建設会の手で建設された。波止浜は曾て瀬戸内海における「倭寇」の根拠地せあったという説がある。寛文三年刊、香西成資著の「南海通記」に「明世宗嘉靖年中ニ、倭ノ賊船大明国ニ入リテ、其ノ辺境ヲ侵ス事アリ、是レ倭ノ後奈良帝ノ天文弘治ノ年ニ当ル(中略)四国伊豫ノ能嶋、来島、院島ノ氏族将帥ト成リテ、諸所ヲ誘キ来ラスモノナリ云々」とあった。(真下喜太カ氏考証)
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昭和36年(1961年)5月8日、星野立子は高浜虚子の句碑を見にいく。
つるさんが波止浜にいた頃に建てた父の句碑の下に集って記念の
写真をうつす
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春潮や和冦の子孫汝と我 虚子
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原儀三郎の歌碑

諸人の集ふ園生に溢れつつ草木やしなへ玉のま清水
原儀三郎(嘉永6年〜昭和10年11年15日)
儀三郎は水の少ない波止浜公園の為井戸を掘っている。
明治25年(1892年)、建立。
山頂の展望所へ。

途中に今井つる女の句碑があった。

渦汐にふれては消ゆる春の雪
昭和15年(1940年)、高浜虚子一行が波止浜を訪れた時に詠んだ句。
明治30年(1897年)6月16日、今井つる女は高浜虚子の次兄池内政夫の三女として松山市玉川町に生まれる。本名鶴。
明治37年(1904年)、尋常第一小学校(現・番町小学校)に入学。
大正3年(1914年)、今井五郎と結婚。
昭和15年(1940年)、「ホトトギス」同人となる。
昭和20年(1945年)5月、波止浜に疎開。
昭和22年(1947年)5月、今井五郎は波止浜町長になる。
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今井五郎、波止浜の町長になりし由祝句。
浜焼の鯛の長とは頼もしき
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昭和26年(1951年)9月17日、高浜虚子は高浜年尾、星野立子を連れて波止浜に行き観潮閣泊まる。
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九月十七日 波止浜に行く 観潮閣泊り
旅といへど夜寒といへど姪の宿
わが好む無花果甘さ足らずとも
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旅といへど夜寒といへど姪の宿
波止浜には今井つる女の家があつた。今井一家は疎開したまゝ故郷に住みついてゐて、私等の訪ねるのをよろこんで待つてゐた。その夜、観潮閣泊。
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昭和30年(1955年)、今井つる女は上京。
昭和39年(1964年)5月、今井つる女社中句碑建立。
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昭和41年(1966年)9月6日、星野立子は観潮楼に泊まる。
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ハイヤーに分乗して波止浜へ 観潮楼
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灯の下に大桜鯛運ばるゝ
旅馴れて来て波止浜の晩涼に
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観潮楼泊
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平成4年(1992年)、今井つる女は95歳で死去。
山頂の展望所

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