昭和十二年の夏、およそ二月ほどの間、瀬戸内海の中ほどにある、伯方島の一海村、有津といへるところにて、索居の時を過せしことあり。夢を破るは枕にひびく、遠潮騒の音のみならむや。 |
除蟲菊の花の盛りも過ぎにけりさびしきかなや伯方島山 荒神(くわうじん)の瀬戸のうねりに船揺れて伯方島山ちかづきにけり 今治の朝發ち船にわが乘れば海も凪ぎたり島へいそがな 人麿がむかしい往きし海を往きうまし伯方の島山を見む 碧梧桐大さかづきをかたはらに文字書きしてふ島はいづこぞ 船に乘りふりさけ見れば夏雲のなかにありけり石鎚の山 朝床のうつつに聽けばたのしかり船折瀬戸のうづ潮のおと 有津の海をながめて今日もあり吾妹子(わぎもこ)の船を待つにあらねど
『天 彦』 |
船折瀬戸は、有津(あろうず)(道下(みちか))と鵜島(うしま)に挟まれた幅300mの狭い水道で、瀬戸内海の干満の差も影響して、磯にあたり渦を巻きながら最大9ノットの潮流が行き来する。また、古くより瀬戸内海の主要航路であり、今も多くの船が行き交う。木造船の時代までは、潮流に逆らって航行することが出来ず、潮の流れる方向を待って(潮待ち)往来していたが、鋼船になってからは、馬力もあり丈夫なので潮に逆らって行く迫力のある姿を見ることも出来る。東側の赤灯台から潮が流れていると引き潮で、西側の鶏小島から潮が流れていると満ち潮である。有津(道下)を囲むようにある東の赤灯台から西の伯方・大島大橋のかかる身近島までを総称して船折瀬戸とも言う。 船折瀬戸の名の由来は、見てわかるとおり海の難所であり、昔から航行する船が真っ二つに折れたというところからきている。(明神鼻の袂には、伯方島を愛した歌人、吉井勇が詠んだ歌碑が建てられている。) |
昭和十二年の夏、予は伯方島にある一海村、 有津といへるところにて二月を過しぬ。知ら ず、これも流離の果か。 この島も伊豫の國かも瀬戸の海の船路を遠く來しと思ふに 伯方島の島居にいつか見馴れたり朝發ちの船夕發ちの船 たたかひは支那大陸にはじまりてわれの島居安からぬかな たたかひ出で征(た)つ人を幾人か乘せて船往ぬ朝な朝なに
『旅 塵』 |
人麿か |
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むかしいゆきし海をゆき | |
うまし伯方の | |
島山を見む |
この歌碑の歌は昭和12年夏吉井勇が三ケ月にわたって有津の宿に滞在中百数十首の島の歌をのこされたそのうちの1首である。 |