作兵衛は元禄元年(1688年)2月10日筒井村の貧しい農家に生まれた。父作平25歳、母ツル23歳の一人子であった。貧しかったが勤勉な性格で、23歳ころ貞淑な妻タマを迎え、昼は農業にはげみ、夜は縄をない、わらじをつくるなど稼業に精出していた。 作兵衛24歳の時母ツルを失った。母の好物の飴を買うことができず野辺送りをしたことが、作兵衛の生涯の心残りとなった。 作兵衛26歳の時長男作市が生まれ、29歳で、長女カメが生まれた。母を失った悲しみは残ったが、このころの作兵衛は幸福であった。40歳ころまでには自作地三反三畝(約33アール)、小作地一反五畝(約15アール)を耕作する模範的な百姓となっていた。 享保16年(1731年)7月10日、苦楽を共にしてきた妻を亡くした。タマ38歳の若さであった。作兵衛は悲嘆にくれたが不屈の精神でますます農業に精出した。 享保17年(1732年)恐るべき大飢饉が到来した。3カ月をこす長雨とウンカの異常発生である。被害は西日本に集中したが、特に松前地区の被害は甚大であった。野に青草一本もなしといわれ、餓死者は800人に及んだ。同年6月10日父作平が餓死し、ついで長男作市が18歳で餓死した。悲しみと餓えに打ちひしがれた作兵衛であったが気力を振りしぼって野良仕事に出ていた。しかし、遂に倒れてしまい意識不明となったが、幸いにも隣人に助けられ、家に帰ることができた。 その時家には、約1斗(18リットル)の麦種が残されていた。作兵衛はこの麦を食べることをすすめられたが、「農は国の本、種子は農の本、自分の命より尊い」と人々をさとし、享保17年9月23日、この麦種の俵を枕に餓死した。同年10月2日長女カメも父のあとを追うようにして餓死して、一家全員飢饉の犠牲となったのである。 作兵衛の死はたいへん人々を感動させた。安永5年(1776年)、時の松山藩主松平定静(さだきよ)は、丹波成美(しげみ)に命じて、作兵衛の事績を永久に伝えるために碑文を作らせ、尾崎訥齋(とつさい)に清書させた。碑の建立には伊予郡24カ村から360余人が労力を奉仕し、安永6年4月15日完成した。 碑石は雲母安山岩の自然石で、作兵衛の業績は碑陰文に簡潔明快に述べられている。昭和28年12月25日県指定史跡となった。 傍らの小墓石は享保17年12月24日、藩命により作兵衛のためにつくられた墓である。 作兵衛は、その遺徳が顕彰され、明治14年より瑞穂建功命(みずほたていさおのみこと)として祀られている。
松前町教育委員会 |
大寺の竈ハ冷えてきりぎりす
『寒山落木 巻三』(明治二十八年 秋) |
昭和47年(1972年)11月20日、高浜年尾は子規、極堂、虚子の句碑を見ている。 |
十一月二十日、道後九時半発南予宇和島へ 途中義農神 社に子規、極堂、虚子句碑を見、白滝へ立寄る そばを干す二十五枚の筵敷く 登り行く滝の高さを落葉みち 初冬なほ紅葉に遊ぶ人等かな
『句日記』(第四巻) |
作詞 星野 哲郎 |
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作曲 島津 伸男 |
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歌 水前寺 清子 |
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如何に飢えても 種麦ゃ食わぬ |
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それが義農の 魂じゃないか |
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わしが死のうと 松前は残る |
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のこる故郷へ この一粒の |
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命ささげて 明日を蒔く |
義農作兵衛は麦種を残して民を救い |
坪内翁は水を引いて伊予の大地を潤した |