元禄年間(約300年前)當山初代大休Y和尚が河内国(現大阪府)道明寺より神像受け勧請す。 |
太平洋戦争も終結間近の昭和20年8日5日、今治市が空襲に遭遇した際、市内の軍需工場に女子学徒挺身隊として奉仕していた松山城北高女生22名、松山高女生2名計24名が、波止浜方面に避難中、通称馴合坂において米軍機からの機銃掃射を受け若い尊い命を奪われました。 これらの亡くなった人々は、当寺から約1キロ離れた動仙鼻で荼毘にふされ、遺族が持ち帰った遺骨の残りをこの地に埋葬し、永遠の霊を弔うため石碑を建立しました。 なお、同級生によってつくられた殉職者全員の氏名をしるした合同位牌は、当寺位牌堂に安置され、年に一度の施餓鬼法要日には碑前に供え、数名の僧侶により手厚く供養が行われています。
合掌 |