昭和35年(1960年)11月29日、山口誓子は円光寺に明月の書を見に行った。 |
昭和三十五年の十一月二十九日、私は前日から松山に来ていた。この日は明月の書を沢山見た。良寛と寂厳(じゃくごん)の書を好む私は松山円光寺の僧、明月の書が見たかったのだ。明月の書には寂厳のようなメカニズムはない。うまく書けなくてもいい、筆の赴くままに、筆のあとからついて行こうというような書だ。懐素を模したと云うが、なるほど懐素だ。みな千船町の医師・笠置信氏の蔵である。 明月の書とともに、久米神社の神官、三輪田米山の書もすこし見た。米山は王羲之を習ったと云う。 子規は明月の書を「尋常をぬけ居候」と評した。 |
明治29年(1896年)冬の句で「明月和尚百年忌」の前書きがある。明月(1718―1797(享保3年―寛政9年)は山口県屋代島生れ、15歳から円光寺で修行、京・堺に学び、詩文・書に優れ、奇行も多かった。「風呂吹」は大根・蕪をゆで、練り味噌で食べる料理で冬の季語。昭和59年4月1日建立。 |
明治30年冬の句。「草庵」と前書きがあるので、この句は子規庵の室内を詠んだのであることがわかる。二人の当時から絶品とされていた。蔵沢は武士、明月は坊さん。子規のうちに蔵沢と明月の書があり、その明月の書は、虚子の結婚記念に虚子に贈った。昭和59年7月22(明月の命日前日)建立。
松山市教育委員会 |
真宗大谷派丘南山圓光寺第七代住職である。享保12年(1727年)仲秋名月の夜、山口県大島郡願行寺に生まれ、圓光寺の法灯を継いだ。 人間味豊かにして逸話多き僧である。20歳、京都泉州堺、江戸に遊学し仏儒の学を究め徂徠の古学を好んだ。又、「今の学者は読書すれども書見台の前のみにて今日のことに考へ合すことをせず」といって実学の肝要を説いた。越後の良寛、備中の寂巌と共に近世の三筆と称せられ、「明月の書、藏澤の墨竹は松山藩の宝なり」と語り継がれた。 天覧に浴した「扶桑樹傳」は伊予の巨木扶桑樹を題材とし「道後温泉の詩」と共にロマンに満ち、天下に伊予の名を高からしめた。寛政9年(1797年)7月23日命終、郷土文化発展の祖と慕われている。 明治29年その百回忌に当たり子規居士は盛大な句会を催した。 風呂吹を喰ひに浮世へ百年目 子規 の1句は今日においても多くの人々から親しまれている。「風呂吹」とは圓光寺伝統の精進料理「ふろふき大根」のことである。この時、 |
寂滅偽楽百年にして初時雨 | 虚子 |
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奇僧と聞く墓に茶の花たむけんか | 把栗 |
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凡そ百年にしてうち時雨たり | 碧梧桐 |
その他数多くの詩句が残された。その時の懐(おも)いも消えやらぬ翌30年、居士は東京根岸の子規庵で「草庵」と題し次の句を詠んだ。 冬さひぬ蔵沢の竹明月の書 子規 好きな二人の書画のため「草庵も光を生ずる」思いがしたのだろう。 明月上人の像は田中彰、題字は山口清苑両氏の作である。この胸像を建立した際、大阪府守口市の医師賀陽豊麻呂博士により明月讃歌が作詞作曲され遺墨集「近世の名筆明月上人」が刊行されている。
圓光寺第十五世住職 徳行誌 |
真に、仏の国である極楽浄土ではいつの間にか「知恵と慈悲」による。真実の教えがだれの耳にも入ってくる――ということです。 200年昔、学者能筆家として有名な圓光寺第七世住職明逸が明月という雅号をそのまま法名の形で釋明月と署名していることは、この世がそうありたいものだという彼の強い自信と願望の表われでしょう。
釋徳行 誌 |