伊予松山というのは領内の地味も肥え、物実(な)りがよく、気候は温暖で、しかも郊外には道後の温泉があり、すべてが駘蕩としているから、自然、ひとに戦闘心が薄い。
司馬遼太郎著『坂の上の雲』(文藝春秋刊)単行本:1巻より |
道後温泉本館は、温泉の近代化をめざした当時の道後町長伊佐庭如矢(いさにわゆきや)により明治27年(1894年)4月に落成、建設百周年にあたる平成6年(1994年)には国の重要文化財に指定された。 |
伊佐庭如矢は明治23年に道後湯之町の初代町長として道後温泉本館建築に情熱のすべてを注ぎ、幾多の困難を乗り越えながらも明治27年4月落成に至った。 棟梁は城大工の坂本又八郎で、重厚な伝統技術を生かしながらも洋風建築の優れた点を取り入れ、伊佐庭如矢を助けた。 伊佐庭翁は、明治35年に任期満了により町長退職、余生は詩歌、茶の湯などの風流に親しみ明治41年9月永眠した。 |
明治28年(1895年)10月19日、子規は三津浜を出航。最後の上京をした。 |
漱石と子規との交友は密であつたし、漱石と私との交友は密であつたのであるが、子規・漱石・虚子と三人が出逢つたことは極めて稀であつた。松山に子規が大學生であつた時分に歸省した、其時同じく大學の學生であつた漱石が訪ねて來た。其時私も行き合わせて三人で出逢つた事が一度、それから此の時、即ち明治二十八年の大晦日に子規の根岸の家で漱石と私と一緒に出逢つたことが一つ。その他にはもう出逢つた記憶はないのである。
高浜虚子『子規句解』 |
足なへの病いゆとふ伊豫の湯に |
飛びても行かな鷺にあらませば |