道後公園は全体で約8.6ヘクタールあり、外堀を含め南北約350m、東西約300mで、中央部は海抜約70m(比高約30m)の丘陵部となっています。 外周は外堀で囲まれ、丘陵を取り巻くように内掘があります。 明治19年に設置された道後植物園を前身とし、明治21年に県立道後公園となりました。 昭和62年の道後動物園移転に伴い、昭和63年から発掘調査を実施したところ、湯築城跡の遺構や遺物が数多く出土しました。 12年間におよぶ発掘調査によって、遺構として、道路、礎石建物、土塀などが検出され、 遺物として、土師質土器(はじしつどき)、輸入陶磁器などの土器類や武具、建築用具の金属製品など約25万点が出土しています。 湯築城跡の遺構は、全国的にみても、中世守護の城館としてまれに見る良好な状態で残っており、極めて貴重な遺跡であることが明かになりました。 この遺跡を保存・活用するため、復元区域では、武家屋敷や土塁などの復元、出土遺物・遺構の公開を行っており、散策・休憩しながら楽しく歴史を学べる場としております。 |
一茶はその師二六庵竹阿の旅日記『其日ぐさ』の跡をたどり、寛政7年(1795年)讃岐から松山に入り、師の友人栗田樗堂の二畳庵を訪ね、2月1日に道後を訪れてこの句を詠んだ。 江戸時代古図(1813年)によると、本湯の西の外れに長円形の池があり「乞食牛馬入込(いりごみ)」とある。いいお湯ではなかったらしい。
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湯釜は、浴槽内の温泉の湧出口に設置するもので、これは現在の道後温泉本館ができた明治27年(1894年)まで使用されていたものである。 直径166.7センチメートル、高さ157.6センチメートル、花崗岩製である。奈良時代の天平勝宝年間(749〜757)につくられたと伝えられる。 湯釜上部に置かれた宝珠の「南無阿弥陀仏」の六字名号は、河野通有の依頼により一遍上人が刻んだものと言われている。 湯釜本体に刻まれた温泉の効験に関する文は、天徳寺の徳応禅師の撰文になるもので、享禄4年(1531年)、河野通直が石工を尾道から招いて刻ませたものである。
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大正7年(1918年)8月、内藤鳴雪の句碑を建立。 昭和3年(1928年)11月、「御大典奉祝記念」の碑を建立。 昭和27年(1952年)9月、伊佐庭翁頌徳碑建立。 昭和37年(1962年)11月23日、波多野晋平の句碑除幕。 |