久万高原町菅生に四国八十八ヶ所霊場44番札所大寶寺があるので、行ってみた。 |
昭和14年(1939年)11月21日、種田山頭火は大宝寺に参拝している。 |
十一月二十一日 早起、すぐ上の四十四番に拝登する、老杉しんしんとして霧がふかい、よいお寺である。 同宿の同行から餅を御馳走になったので、お賽銭を少々あげたら、また餅を頂戴した、田舎餅はうまい、近来にないおせったいであった、宿のおばさんからも月々の慣例として一銭いただいた。
『四国遍路日記』 |
昭和46年(1971年)4月20日、高浜年尾は大宝寺を訪れている。 |
四月二十日 宇和町より久万を経て高知へ 四十四番 札所大宝寺 紅枝垂ざくら札所の春進む 行春を親み話す修道女 |
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、59番目の山頭火句碑である。 |
貞亨4年(1687年)11月、『笈の小文』の旅で熱田の門人起倒宅で詠まれた句。 |
翁心ちあしくて欄木起倒子へ藥の(事)いひつか(は)すとて |
薬のむさらでも霜の枕かな | はせを |
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昔し忘れぬ草枯の宿 | 起倒 |
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『如行子』 |
芭蕉蕉翁五十遠回にあたらせ給へば、遠津島根はさらなれや、深き山家の奥までも追福の沙汰、華をあやどり月を磨むにはいとありがたふこそ。
『俳諧霜夜塚』 |
元禄14年(1701年)、小倉志山は松山に生まれる。俗称は茶屋長次郎。俳号紅魚園・兎角坊。 寛保3年(1743年)10月12日、芭蕉五十年忌に霜夜塚を建立。 延享元年(1744年)11月、『俳諧霜夜塚』を刊行。 宝暦12年(1762年)、62歳で没。 |