松山長建寺 捕虜(とりこ)居る御寺の桜咲きにけり
『年代順虚子俳句全集』(明治28年) |
子規子選 |
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壓巻 |
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門前に野菊咲きけり長建寺 |
梅屋は松山市生まれ。松山市立松山高等小学校教員。愚陀仏庵南隣に住み、同庵に漱石と同居とていた子規に教えを受けに日参した松風会員の一人。 明治28年(1895年)10月上旬の『松風会稿抜草』(子規選)では、この句が「圧巻」と朱書きされて、その子規の文字のままでこの句碑が建立されている。昭和36年春建立。
松山市教育委員会 |
高橋一洵先生は松山に生まれ、大正14年早大卒業後、33年間松山商大に教鞭をとり、古代印度の宗教社会政治の研究・聖徳太子・一遍上人の讃仰等多数の論文を発表す。佛教の実践 名講演は青年と大衆の心を打つ。俳人山頭火を敬愛し、その最後を見守る。昭和33年1月26日歿。山翁と共に59歳なりき。 |
昭和十四年十月、山頭火は松山に来て、一洵に会い、以後、道後温泉に近い一草庵に定住、一洵とそのまわりの人々との往来は、山頭火の生涯にとって第一の楽園だった。 赤貧洗うが如き一洵の天衣無縫の姿をこの地上に残したいと、一洵句碑建立を発願し、多数の人々の声援を得て、「母と行くこの細径のたんぽゝの花」の句碑を建立。 この句碑と対面して、真友山頭火の句碑「もりもりもりあがる雲へあゆむ」を建立して妙好人一洵と自然児山頭火の歓喜遊戯の姿を地上に再現したのであった。昭和五十一年一月二十六日建立。二人共に五十九歳で没したのであった。
『山頭火句碑集』 |
山頭火の句は昭和15年の俳誌「層雲」12月号に発表された最晩年の句。 母と行く――の句は、句碑建立の中心となった今治市の篤志家の所持する画帳の中の一洵自筆の文字の拡大したものである。 山頭火は天下の自然児、一洵は天衣無縫の妙好人。昭和14年10月、この二人は松山でたちまちに肝胆相照らし、一洵は山頭火の最期を温かく見守った。 その二人の句が、ここで向かい合っているのである。共に昭和51年1月26日の建立。この日は一洵の一九回忌に当たる。
松山市教育委員会 |
貞亨3、4年(1686、7年)ごろ江戸深川での作。ナズナの花はほとんど人の目につかないかき根などにつつましく咲くものである。その目立たないナズナの花を見つけた驚きと喜びとを素直に表現している。その驚きの心には深い愛情があって、おのずからわき出したものであろう。初五「よくみれば」に千鈞の重みがある。建碑年は不詳。
松山市教育委員会 |