極堂は子規の新俳句普及のため、俳誌「ほとゝぎす」を発刊、松山俳句界の興隆につとめ、晩年は子規顕彰に尽くした。この句は「ほとゝぎす」第7号(明治30年7月)所載の句で、それには「筍」が「竹の子」となっている。 極堂翁31歳の時の句である。句集『草雲雀』著書『友人子規』等。
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年尾は高浜虚子の長男。名付け親は正岡子規 。 俳句は中学時代に虚子から手ほどきを受け、昭和9年35歳のころから本格的に句作に精通した。 虚子最晩年より「ホトトギス」を継承主宰した。昭和47年11月建立。
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十一月十九日 松山市万翠荘 句碑除幕 道後中村泊り 時もよし菊薫る辺に句碑除幕 城山の木の実降る日の今もなほ
『句日記』(第四巻) |
夏目漱石は明治28年4月英語の教師として旧制松山中学に赴任。ここにあった家老屋敷のはなれに下宿した。 後年小説「坊ちゃん」の題材となった愛松亭がこれである。 碑文は愛松亭から東京の恩師に着任の報告をした書簡である。 |
拝呈出立の節は色々御厚意を蒙り奉万謝候 私事去る七日十一時発九日午後二時頃当地着仕候間乍憚御安意被下度候赴任後序を以て石川一男氏に面会致し早速貴意申述置候間左様御承知被下度候同君事ハ今回石川県に新設の中学校へ更任相成明日当地出発の筈に御座候小生就任来既に四名の教師は更迭と相成石川君も其一人に御座候何事も知らずに参りたる小生には余程奇体に思ハれ候 教授後未だ一週間に過ぎず候へども地方の中学の有様抔(など)は東京に在って考ふる如き淡泊のものには無之小生如きハーミット(隠者)的の人間は大に困却致す事も可有之と存候くだらぬ事に時を費やし思ふ様に勉強も出来ず且又過日御話の洋行費貯蓄の実行も出来ぬ様になりはせぬかと竊(ひそ)かに心配致居候 先ハ右御報まで余ハ後便に譲り申候時下花紅柳緑の候謹んで師の健康を祈り申候
頓首
四月十六日
金之助
神田先生 座右 |
大正9年(1920年)3月、黙禅が38歳で松山赤十字病院長として赴任。県庁に赴いた際、役人が出した一杯のお茶に感謝して詠んだものだそうだ。 |
大正11年(1922年)、旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨(さだこと)伯爵が、別邸として建設したもの。 平成22年(2010年)7月、敷地内の愚陀佛庵は土砂崩れにより全壊した。 平成23年(2011年)11月29日、萬翠荘本館と管理人舎の2棟が国重要文化財に指定された。 |
秋晴の 城山を見て まづ嬉し |
つる女・本名鶴は高浜虚子の次兄池内政夫の三女。父が早死のため、4歳の時、長兄政恵の養女となり、後、波止浜町長今井五郎と結婚し今井姓となる。 この句碑のある所は彼女が5歳から6年間過ごした思い出の地。つる女の米寿を祝い、愛媛県ホトトギス会同人らが昭和59年10月28日建立。 当日つる女はこの句碑を「私の分身です。」といって声をつまらせた。
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