法龍寺父君の墓に詣でゝ 畑打よこゝらあたりは打ち殘せ
『寒山落木 巻四』(明治二十八年 春) |
「子規は、この學校に入ったとき、まだまげを結っていた」 と、柳原極堂(正之)という子規の同郷の友人が書きのこしている。子規の母方の祖父は大原観山という旧松山藩随一の学者でながく藩儒をつとめていたが、このひとが大の西洋ぎらいで、自分もちょんまげのまま生涯を通し、初孫の子規にもまげを切らさず、外出には脇差一本を帯びさせた。
司馬遼太郎著『坂の上の雲』(文藝春秋刊)単行本:1巻より
正岡子規は、この寺にあった末広学校に通っていた。本堂が校舎で、生徒たちは箱膳のようなものの中に、硯や墨、書物などを入れて通った。この学校は子規が入学して、1年足らずで智環学校と名前をかえた。 この地には正岡家累代の墓があったが、昭和2年(1927年)に正宗寺 へと移された。 |
当寺は、もと正岡家の菩提寺であった。 子規は日清戦争従軍記者として出征に際し、明治28年3月15日ここに父の墓を詣でた。 休戦後、帰国の船中で喀血、大患養生の後、8月末に松山へ帰り法龍寺に墓参の折、 「法龍寺に至り、家君の墓をたづぬれば、今は畑中の荒地と変り果てたるにそゞろ涙を催されて」と前書して次の句を詠んだ。 |