「ターナー島」は松山市高浜1丁目、横山の沖約150メートルに浮かぶ小島で、正式名称は「四十島」といいます。 明治39年4月、夏目漱石は小説「坊っちゃん」を発表しました。その中で「四十島」のことを次のように描写しています。 「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」・・・・・・・ 「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」・・・・・・・ すると野だいこがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名付けようじゃありませんかと余計な発議をした。赤シャツはそいつは面白い、われわれはこれからそういおうと賛成した。 以来、松山では「四十島」のことを「ターナー島」と愛称しています。
「ターナー島を守る会」設置 |
明治25年秋の句。子規自筆拡大。「初汐」は旧暦8月15日の大潮のこと。句に詠まれた姿のよい松は枯れてしまったが、篤志家の手によって蘇りつつある。 明治25年(1892年)伊予鉄道が三津から高浜まで延長され、子規らはよくここに遊んだ。 |
死の直前の大正7年4月の作。朱燐洞(しゅりんどう)は、この年の10月31日、流行性感冒により24歳の若さでこの世を去った。 |
明治26年(1893年)11月、愛媛県温泉郡素鵞村大字小坂(現:松山市小坂町)に生まれる。守隣(もりちか)。 明治44年(1911年)、荻原井泉水の「層雲」に参加。 大正7年(1918年)10月31日、没。 昭和14年(1939年)10月5日、種田山頭火は野村朱燐洞の墓に詣でる。 |