昭和14年(1939年)10月1日、ふらりと松山へやって来た山頭火は、12月15日、支援者の好意により、ここ御幸寺境内の、のちに「一草庵」と呼ばれる納屋に住んだ。 山頭火は、ここで俳友と「柿の会」を結成。賑やかに句会を催し、代表句集『草木塔』を刊行するなど、自らの生涯で最も落ち着いた安らかな生活を送っている。昭和15年10月11日早朝、脳溢血で死去。享年59歳。念願のころり往生であった。 昭和27年(1952年)10月、一草庵は老朽化が進んだため、山頭火顕彰会が35万円の浄財を募って改築、昭和55年(1980年)、顕彰会から松山市に寄贈された後、数回の修繕工事が施され、平成21年、周辺の環境整備に伴う改修によって、改築当時の面影が蘇った。 |
一草庵を訪ねて 盃が枕元に月がさしていたという
『雀のことば』 |
昭和7年(1932年)1月8日、福岡県遠賀郡芦屋町で托鉢(行乞)に出たときの句。 『行乞記』に「今日はだいぶ寒かった。一昨六日が小寒の入、寒くなければ嘘だが、雪と波しぶきとをまともにうけて歩くのは行脚らしすぎる。」と記し、この句がある。この日、6里(約24km)を歩いた。 没後、初めて建てられた(山頭火にとって2番目の)句碑で、山頭火の髯(あごひげ)が納められている。 |
昭和8年(1933年)3月19日、山口市小郡町での句。 『其中日記』に、句友3人が来庵、「其中庵稀有の饗宴がはじまった。よい気持で草原に寝転んで話した、雲のない青空、そして芽ぐみつつある枯草。道に遊ぶ者の親しさを見よ。夕方、それぞれに別れた、私は元の一人となった、さみしかった。」と記し、この句がある。「鉢の子」は、托鉢僧が使う容器。厳しい冬は「鉄鉢」、暖かい春は「鉢の子」と詠み方を変えている。 |
□春風の鉢の子一つ □秋風の鉄鉢を持つ
『行乞記 室積行乞』 |
昭和48年(1973年)3月21日、山頭火の三十三回忌に大山澄太が建立。 『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、10番目の山頭火句碑である。 |
死の1か月前、『山頭火句帳』の昭和15年(1940年)9月8日の項に、「濁れる水のながるるままに澄んでゆく」の句とともに記されている。 この庵の前を流れる大川を詠んだ句であるが、自らの人生を観じた句でもある。20年近い流転孤独の生活の悩みと寂しさに、濁れる水のように心を曇らせながらもなお、逞しく自己をむち打ち続け、そこから自己の魂を取り戻そうと努めた山頭火の境涯が重なる。 |
一洵君に おちついて死ねさうな草枯るる |
昭和14年(1939年)12月15日、高橋一洵が奔走して見つけたこの草庵に入った山頭火は、日記に「私には分に過ぎたる栖家(すみか)である」と記し、その労苦に感謝し一洵にこの句を呈した。「死ぬることは生まれることよりもむつかしいと、老来しみじみ感じ」た山頭火が、一草庵を終の住処(すみか)とした境地である。 翌年3月には、改めて「おちついて死ねそうな草萌ゆる」と詠んでいる。 |
失礼いたしました、巡拝中のつかれがまだ快くなりませんが、縁に随うて表記のところへ落ちつきました、すべてが私の分に過ぎたる栖家で、 おちついて死ねさうな草枯るゝ ――であります、一月の五六日頃に一応一寸帰山いたします、その節お訪ねいたします、それまでに“雀”の句稿をおまとめあるやう、私ハ“鴉” の句稿をあつめます(万々拝眉の上で)。
昭和14年10月26日、木村緑平宛書簡 |
昭和十四年朧月十五日、松山知勇の厚情に甘え、縁に随うて、当分、或は一生、滞在することになった。一洵君におんぶされて(もとより身内のことではない)道後の宿より御幸山の新居に移る。新居は高台にありて閑静、山もよく砂もきよく水もうまく、人もわるくないらしい、老漂泊者の私には分に過ぎた栖家である。よすぎるけれど、すなほに入れていただく。松山の風来居は山口のそれよりうつくしく、そしてあたたかである。 一洵君に おちついてしねさうな草枯るる |
(死ぬることは生まれることよりもむつかしいと、老来しみじみ感じないではゐられない) |
「『草木塔』以後」 |
明けましておめでたう存じます、いつも御無沙汰がちで申訳ありませんが、おかわりありませんでせう、私は巡拝中に、縁に随うて表記の場所に落ちつきました、私には分に過ぎたる栖家で、閑静至極であります。 おちついて死ねさうな草枯るゝ 一りん咲けばまた一りんのお正月 机上の水仙を眺めつゝ御一同の御清適を祈ります。
昭和15年1月1日、関口江畔・父草宛書簡 |