津宮河岸 香取神宮一の鳥居水中に建てり。(是より香取へ陸十六丁)。三社参詣の人、この河岸より上り神宮へ參詣す。津宮の名義は、當所に竈神社といふありて、香取志に、奥津彦神・奥津姫神を祭れり。此神は古事記に、須佐之男命の孫大年神の子なり。延喜式に、竈神仁座、従五位上大邑刀自、次に小邑刀自云々。やしろをもと津宮といふ。 |
宝暦3年(1753年)、横田柳几は香取神宮の一の鳥居に船を寄せ、泊まっている。 |
又もとの利根川に竿さし戻す。送別の吟等爰にもらす。やうやうし初夜過る頃、香取明神の一の鳥居に船を寄せたり。民家に入て臥ぬ。 |
文化8年(1811年)閏2月1日、小林一茶は飯田を立って津宮より船出、源田村に泊まる。 |
一日 | 晴 寒風 兄直対竹 北二茶月等飯田出立 |
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津ノ宮ヨリ出舟シテ源田村佐野屋泊 |
『七番日記』(文化8年閏2月) |
安政5年(1858年)4月4日、赤松宗旦は津宮河岸に揚がり、香取大神宮に参詣している。 |
四日晴 風なし 朝日と共に船を出し 程なく津の宮の河岸へ 揚る。 河岸の佐原や江寄る。 同 村田屋江も寄る。 船を佐原江廻して我等ハ 香取江行。陸十八丁
赤松宗旦『銚子日記』 |
明治39年(1906年)8月31日、河東碧梧桐は津宮から香取神宮に詣でた。 |
十里の船路に五時間を費して、さなきだに空腹に弱った身体を津の宮に吾自身でやっと舁(かつ)ぎ上げた。身体の動かんのを心で舁いであげるようにしたのである。 |
明治44年(1911年)の初夏、与謝野晶子は犬吠埼を訪れて大新楼に一泊。船で利根川を上り香取神社を訪れている。 |
香取津の宮 月見草神の鳥居は草の中 鹿島大船津 二句 浦浪を見はるかすなり鯉のぼり 夏帽に糊光はてなくひらけたり
『葛飾』 |