2004年千 葉

手児奈霊堂〜高橋虫麻呂の歌碑〜
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「真間の継橋」の先を右に曲がると、手児奈(てこな)霊堂がある。


同所継橋より東の方百歩ばかりにあり。手児奈の墓の跡なりといふ。後世祠を営みて、これを奉じ、手児奈明神と号す。婦人安産を祷(いの)り、小児疱瘡を患(うれ)ふる類ひ、立願してその奇特を得るといへり。祭日は九月九日なり。(伝へ云ふ、文亀元年辛酉九月九日、この神弘法寺の中興第七世日与上人に霊告(れいこう)あり。よつてこゝに崇め奉るといへり。『春台文集』継橋記に手児奈の事を載せたりといへども、その説俚諺にして証とするに足らず。)

『清輔奥義抄』に云く、これは昔、下総国勝鹿真間の井に水汲む下女なり。あさましき麻衣を着て、はだしにて水を汲む、その容貌妙にして貴女には千倍せり。望月の如く、花の咲(ゑ)めるが如くにて、立てるを見て、人々相競ふ事、夏の虫の火に入るが如く、湊入りの船の如くなり。こゝに女思ひあつかひて、一生いくばくならぬよしを存じて、その身を湊に投ず。(中略)又かつしかのまゝのてこなともよめり。真間の入江、真間の継橋、真間の浦、真間の井、真間の野などよめる、みなこの所なり云々。


手児奈(てこな)霊堂


手児奈(てこな)霊堂

 奈良時代の初め、山部赤人が下総国府を訪れたおり、手児奈(てこな)の伝承を聞いて、

われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処(おくつきところ)

と詠ったものが万葉集に収録されている。

 手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀(ぶんき)元年(1501年)には弘法寺の七世日与上人が手児奈の霊を祀る霊堂として世に広めたという。

 手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人々の争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽したとか、手児奈は国造(くにのみやつこ)の娘で、その美貌を請われ、或る国の国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着したところが生まれ故郷の真間の浦の海辺であったとか、さらには神に仕える巫女(みこ)であったりする等、いろいろと形を変えて伝えられている。

手児奈霊堂に万葉集の歌碑がある。


   挽歌 詠勝鹿眞間娘子謌

勝鹿(かつしか)の真間の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児名し思ほゆ

『万葉集』(第一巻)

山部赤人の歌ではなく、高橋虫麻呂のものである。

 安永7年(1778年)8月14日、横田柳几は関東三社詣での途次、手児奈大明神に参拝している。

手児奈大明神を拝す

土芋の手こなも寄ルや井のほとり
   柳

真間井 瓶甕可汲固志何傾 嗚呼節婦与水冽清

真間の井や幾秋水も名も涸す
   篁


 文化14年(1817年)8月27日、国学者高田与清は真間の手児名のことを書いている。

○眞間の手兒名がおくつき處は、池の邊に手兒女明神とて社あり。


 昭和3年(1928年)、富安風生は真間の手古奈堂で句を詠んでいる。

   真間手古奈堂

さしのぞく古井の水もぬるみけり

『草の花』

 昭和7年(1932年)11月6日、高浜虚子は武蔵野探勝会で手児奈霊堂へ。

 葛飾の美しき乙女、真間の手児奈が伝説は余りにも人口に膾炙してゐる。その身を投げたと伝へらるゝ、所謂手児奈の井戸の井桁は朽ちて、濁つた水の上に被せてある殺風景な金網が、傾いて転げかゝつてゐるのも幻滅の悲哀である。傍に咲きこぼれてゐる一もとの白い山茶花の大木ばかりが人目を惹く。池の蓮は枯れて、蘆や真菰も末枯れてゐる。

 兎も角も先づ手古奈堂に詣でる。正面に「われも見む人にもつげよむ葛飾の真間の手児奈の奥津城どころ」といふ山部赤人の有名な歌の額がかゝつてゐる。

『武蔵野探勝』(真間の晩秋)

十一月六日。武蔵野探勝会。真間手古奈堂。

 草枯や泣いてつき行く子ははだし

 末枯に大工散らばる普請かな

亀井院へ。

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