推古天皇6年(598年)、聖徳太子開山。 |
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天安元年(857年)、慈覚大師再興。 |
神野山といへる道場にまうでて、 なく鹿の野にも山にも聞ゆなり妻こひわふる秋の夕暮 |
花嬌は一茶と交流があったことで知られている。 一燈は大島蓼太の句碑を建立している。 |
雪中花 |
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初雪や聖小憎の笈の色 | 芭蕉 |
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群鴉鐘聲白月淡し山の春 | 壽雄 |
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雛僧の衣に梅の白さ哉 | 正一 |
鹿野山のをとめの伴はわがために竹筒に小石いれて樂成す この山に古くつたはりし笹飴もやがては滅びゆかんとぞする |
山寺に蠅叩なし作らばや 而して今ひと眠り明易き 山寺に我老僧かほとゝぎす 七月十四日 千葉県鹿野山神野寺。土筆会第一回。 明易や花鳥諷詠南無阿弥陀 毒虫を必死になりて打擲 す 山寺に名残蠅叩に名残 すぐ来いといふ子規の夢明易き 蠅叩にはじまり蠅叩に終る 七月十九日 稽古会第四回。下山。 |
はじめて集つた神野寺は霧が深く蠅が多く黴くさかつた。笙堂さんが率先して私等をもてなして下さるし、成田山からも加勢が来て、句会は年々賑やかになつてゆくばかりであつた。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
歯塚とはあらはづかしの落葉塚 我生の七月二十日歯塚立つ 歯 塚 楓林に落せし鬼の歯なるべし 七月二十日 午前、第二回。 |
神野寺の庭に父の歯塚が建つた。除幕式には紅白の餅を投げ、盛大な句会となつた。父の神野寺行はこれが最後であつた。その後七月二十日を齒塚供養として稽古会も兼ねて私共はお山に集るのである。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
四月八日 虚子先生御逝去 花の風危篤についで死を報ず
『芹』 |
七月二十日、千葉鹿野山に虚子先生歯塚供養あり、笙堂厳修。真砂子、 年尾、立子、憲二郎其他東京千葉等の諸俳句会員略八十名の参列者あ り。十九日登山、二十日の供養に列し午後下山。句会三回。 大いなるお萩満足避暑の寺 蜩の寺の逗留はや二日 鴫焼をよろこばれたることあれば 鴫焼を一つ一つと食べ淋し 第三十四世笙堂蝿叩
『芹』 |
昭和54年(1979年)、神野寺のトラが逃げて射殺されるという騒動があった。忌野清志郎が追悼コンサートを開催したそうだ。 |
ちなみに、昭和10年(1935年)1月21日、中島知久平邸でライオンが檻から逃げ出すという騒動があった。 |