2005年千 葉

法華経寺〜五重塔〜

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JR総武線下総中山駅北口を出る。


国道14号(千葉街道)を越えると、法華経寺参道が続き、門前町の雰囲気である。

法華経寺(HP)は日蓮宗大本山の寺院。

文応元年(1260年)創立。日蓮聖人が最初に開いたお寺だそうだ。

京成中山駅を過ぎると、総門(黒門)、次に山門(赤門)。

夕陽を浴びる山門(赤門)


あまり大きいので、入りきらない。

山門(赤門)は三門、仁王門とも呼ぶそうだ。

 永正6年(1509年)、柴屋軒宗長は法華経寺に泊まっている。

 真間の継橋の渡り、中山の法華堂本妙寺に一宿して、翌日一折などありしかど、発句ばかりを所望にまかせて、

   杉の葉や嵐の後の夜半の雪


山門(赤門)を入ると、正面に五重塔が見える。

法華経寺五重塔


元和8年(1622年)、建築。

関東では大田区池上の本門寺に次いで、2番目に古い五重塔である。

法華経寺の五重塔は国指定重要文化財。

国指定重要文化財は市川市に9件あるが、そのうち6件は法華経寺にある。

岡村不卜は法華経寺の五重塔を見ている。

   中山の塔を見やりて

広き野の塔みよとてや舞ひばり
   不卜


昭和55年(1980年)に修理が行われて、外部に弁柄塗りが施されたそうだ。

弁柄塗りに夕陽が差して、赤みを増している。

台湾の蒋介石元総統の像があったのは意外だった。

蒋介石元総統の像


法華経寺との関わりについてはよくわからない。

台座に「徳必有隣」と書いてあった。

『論語(里仁)』の「徳は孤ならず必ず隣有り」による。

五重塔の隣に大仏があった。


享保4年(1719年)、鋳造。

船橋街道の左側にあり。(この地を中山村といふ。)

日蓮大士最初転法輪の道場にして、一本寺なり。開山は日常上人、中興は日祐尊師たり。(『鎌倉大草紙』に云ふ、千葉介貞胤(さだたね)、父の宗胤(むねたね)三井寺にて討ち死にせし後、北国落ちまでは宮方にて、新田義貞の御供たりしかども、こゝろならず尊氏の味方になりぬ。弟胤貞は宮方にて千葉にありけるが、この人の子日祐上人は法花の学匠にて、下総国中山の法花経寺の中興開山なり。これによりて、胤貞より中山の七堂建立ありて五重の塔婆をも建てらる。その後胤貞上洛して吉野へ参り、西征将軍の宮の御下向の時、御供して九州へ下り、大隅守に補任し、肥前国をも知行しけり。日祐上人も九州に下向し、肥前国松王山を建立して、総州の中山を引き、末代までこの所を中山と南山一寺と号す」とあり。)

『江戸名所図会』(正中山本妙法華経寺)

祖師堂


延宝6年(1678)、上棟式、元禄15年(1702年)、落慶式。

夕陽を浴びる祖師堂


平成9年(1997年)、創建当時の比翼入母屋造りの祖師堂が復元完成した。

祖師堂も国指定重要文化財。

妙見堂に夕陽が沈む。


夕陽が差す聖教殿


 聖教殿には国宝「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」、「立正安国論」が保管されている。

『江戸名所図会』妙法華経寺(部分)


 文化12年(1815年)10月26日、小林一茶が法華経寺を訪れている。

   廿六晴 夜小雨

   布川ニ入 逢近嶺 中山正中山法花経寺訪

『七番日記』(文化12年10月)

「近嶺」は取手の俳人沢近嶺のこと。

 文化14年(1817年)8月27日、国学者高田与清は法華経寺に詣でている。

二子村の寳珠山多門寺・中山の正中山法華寺・鬼越村の八幡山法漸寺などにまうづ。法華寺は鎌倉大草紙に、日祐上人中興せられしよし見ゆ。開基は永仁年間の人にて、日常上人といひけりとぞ。


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