船橋街道の左側にあり。(この地を中山村といふ。)
日蓮大士最初転法輪の道場にして、一本寺なり。開山は日常上人、中興は日祐尊師たり。(『鎌倉大草紙』に云ふ、千葉介貞胤(さだたね)、父の宗胤(むねたね)三井寺にて討ち死にせし後、北国落ちまでは宮方にて、新田義貞の御供たりしかども、こゝろならず尊氏の味方になりぬ。弟胤貞は宮方にて千葉にありけるが、この人の子日祐上人は法花の学匠にて、下総国中山の法花経寺の中興開山なり。これによりて、胤貞より中山の七堂建立ありて五重の塔婆をも建てらる。その後胤貞上洛して吉野へ参り、西征将軍の宮の御下向の時、御供して九州へ下り、大隅守に補任し、肥前国をも知行しけり。日祐上人も九州に下向し、肥前国松王山を建立して、総州の中山を引き、末代までこの所を中山と南山一寺と号す」とあり。)
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祖師堂

延宝6年(1678)、上棟式、元禄15年(1702年)、落慶式。
夕陽を浴びる祖師堂

平成9年(1997年)、創建当時の比翼入母屋造りの祖師堂が復元完成した。
祖師堂も国指定重要文化財。
妙見堂に夕陽が沈む。

夕陽が差す聖教殿

聖教殿には国宝「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」、「立正安国論」が保管されている。
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『江戸名所図会』妙法華経寺(部分)

文化12年(1815年)10月26日、小林一茶が法華経寺を訪れている。
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廿六晴 夜小雨
布川ニ入 逢近嶺 中山正中山法花経寺訪
『七番日記』(文化12年10月)
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「近嶺」は取手の俳人沢近嶺のこと。
文化14年(1817年)8月27日、国学者高田与清は法華経寺に詣でている。
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二子村の寳珠山多門寺・中山の正中山法華寺・鬼越村の八幡山法漸寺などにまうづ。法華寺は鎌倉大草紙に、日祐上人中興せられしよし見ゆ。開基は永仁年間の人にて、日常上人といひけりとぞ。
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