右に立つ「しら鳥」の歌は明治40年12月の『新声』に発表されたものであるが、牧水はまだ23歳の学生歌人であった。
碑の背面に刻まれた「鋸山の歌」は、喜志子が当地に住んでいる頃「海辺に移りて」と題して発表したもので、表裏合わせて「夫婦歌碑」と呼ばれている所以である。昭和28年に建立された。
『牧水歌碑めぐり』(大悟法利雄著)によれば、昭和28年(1953年)11月3日除幕、16番目の牧水歌碑である。
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「海越えて」の歌碑

海越えて鋸山はかすめども此処の長浜浪立ちやまず
左にある「海越えて」の歌碑は、昭和62年に建立された。歌集『砂丘』のはじめに「三浦半島」と題して「病妻を伴い三浦半島に移住す、三月中旬の事なりき」と記したあとに発表した長沢海岸から房州鋸山を詠んだ歌である。
「漂泊の歌人」と言われ、旅と酒を愛した牧水は、地域の人々との温かいふれあいもあって、喜志子の日常も順調にすすむようになり、大正5年12月28日、東京小石川に引き揚げていった。
横須賀市
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浜梨(はまなす)が咲いていた。

平成18年(2006年)2月25日、若山牧水の生誕地東臼杵郡東郷町は日向市に編入した。
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最光寺へ。
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