本尊は題目宝塔と釈迦多宝の一塔二尊です。 当寺の「大堯山緑起」によれば、観音元年(1350年)永存院日恩人上人の開基と伝えられています。はじめ尼崎の北は、七ツ松に草創されたともいわれていますが、その後市場・巽(辰己)−現在の東本町にあたる地に再興され、元和年間(1615〜24)の尼崎城築城に際して現在地へ移転しました。 本堂は入母屋造、本瓦葺です。柱上の組物や軒屋根の傾斜などに桃山時代の建造美をうかがうことができます。昭和56〜58年の解体修理によって、慶長3年(1598年)に建立され、元和9年(1623年)に当地に再建されたことが判明しました。 多宝塔も、棟札に慶長12年(1607年)とあり、移築されたものと考えられています。塔身は円形で軒そりの形が良く、組物や蟇股などの形態には桃山時代の特徴が良く表れています。いずれも国の重要文化財に指定されています。 客殿・庫裏・鐘桜の3棟は慶長の頃の重要な建造物であり、県指定文化財に指定されています。 その他、室町時代の銘をもつ鰐口・雲板、裏書に永録8年(1565年)と記された絹本著色涅槃図、元亀3年(1572年)〜天正16年(1588年)にいたる古文書が市指定文化財に指定されています。
尼崎市教育委員会 |
元和3年(1617年)、戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入封し、尼崎城を築いた。 寛永12年(1635年)7月28日、戸田氏鉄は美濃大垣10万石へ移封。 |
文化元年(1804年)8月18日、太田南畝は尼崎の城下に入り、小倉に赴く。 |
尼崎の城下に入れば、建つゞきたる人家にぎはへり。すべてこの人家には、家の内の勝手口に暖簾をかけたる家多し。家名をしるせり右の方に城の櫓みゆ。大黒橋をわたり。城をめぐり橋をわたりて市中をゆく。
『革令紀行』 |