芭蕉の句碑
行春をわかの浦にて追付たり
和歌山県内最古の石橋で、紀州藩初代藩主徳川頼宣が妹背山を整備した慶安4年(1651年)頃までに建設された。 |
句碑というのは、妹背山に渡る断橋の前、あしべやという旅館の側にある―― 行春にわかの浦にて追付いたり はせを 碑陰には、 山蒼水泱 山蒼く水泱く 天和地淳 天和に地淳にして 鐘成神秀 神秀を鐘成す 四海絶倫 四海絶倫たり 長留日月 長く日月を留め 春去猶春 春去りて猶春のごとし 祖翁瓊藻 祖翁の瓊藻 千載□々 千載□々たり 天保四歳次癸巳四月穀日 紀城隱士今井櫟亭麥蛾謹誌 碑側には 「畠山尾張守城址石出自日方浦永正寺」として、讃辞と石の出所とを誌してある。
『随筆芭蕉』(和歌の浦) |
昭和2年(1927年)8月16日、高浜虚子は和歌ノ浦に遊ぶ。 |
八月十六日。紀三井寺を訪ひ、和歌浦に遊ぶ。新和歌浦望海楼に て昼食後、欄前潮おだやかで漁船、遊船をちこちなるを眺めつゝ 小句会。 籐椅子の人に遊船かくれけり 夏草に遊船かゝる真昼かな |
昭和6年(1931年)4月6日、高浜虚子は和歌ノ浦を訪れている。 |
四月六日。和歌ノ浦に渡る。 花ありて長き土塀や紀三井寺 海苔を買ふ三断橋のたもとかな 女漕ぐ海苔舟ばかり和歌の浦 海苔舟の女坐りて棹しぬ |
昭和15年(1940年)、荻原井泉水は和歌の浦を訪れる。 |
ここを芭蕉が通つた砂のあしあとに浪が寄せてゐる春 旅の芭蕉と流浪の杜國とがうららかな浪音であるまぶたの中 行く春におひ付いたといふその芭蕉をおうて來たやうな |
昭和18年(1943年)5月12日、高浜虚子は和歌の浦望海楼へ。 |
いかなごにまづ箸おろし母恋し 五月十二日 紀州和歌浦、望海楼。春泥招宴。
『六百句』 |
昭和40年(1965年)6月、山口誓子は芭蕉の句碑を見ている。 |
訪ねる旅館新あしべは、三断橋の前にあった。その橋は小島に架した橋だ。和歌山市電の和歌山停留所に近い。 旅館の前庭に立っているその句碑は大きな自然石で、彫りも深い。 行春をわかの浦にて追付たり 「わかの浦耳て追付堂り」と書かれている。棕梠の木が立っている。句碑にこの木はつきものなのか。粉河寺の句碑にもこの木が立っていた。前庭と云っても、すぐ旅館の窓が見える。然も道傍である。 芭蕉は紀の川沿いの道を西へ西へと歩いて来た。晩春であったが、そんな感じはしなかった。和歌浦に来て見ると、海の景はまさに晩春であった。芭蕉はここへ来てやっと、春の行く思いにひたることが出来た。芭蕉はそれを「わかの浦にて追付たり」と表現した。行く春を追い駆け、追い駆けして、終に和歌浦で取り押さえたのだ。 「追付たり」なら「行春に」とあるべきだ。「芳野紀行」はそうなっているが、「本朝文鑑」に載っている「庚午紀行」には「行春を」となっている。 句碑はこれに拠ったのだ。
『句碑をたずねて』(紀州路) |