詩 碑

山媛呼の碑〜吉田一穂〜

白根火山ゴンドラ山麓駅に吉田一穂の山媛呼の碑がある。


山媛呼の碑


吾妻はや
白根の峯に
けむりたつ
よひて声あり
古ゆ
たきついてゆの
おもひに咲くや
石楠花

      一穂

 吉田一穂(いっすい)(1898−1973)は北海道生まれ。本名由雄。早大中退。浪漫的な詩風から、現実否定の反俗的な傾向を強くして、独自の形而上的な純粋詩を作る。詩集「海の聖母」「未来者」、散文詩集「故園の書」、詩論「黒潮回帰」など。

山媛呼(やまひこ)はこだまで、古くは山の神、山の霊の声と考えられていた。

 山媛呼の碑は白根山の山頂で日本武尊が亡き弟橘媛を偲んで流した涙がシャクナゲになったという神話にちなんで建てられたそうだ。

 命はその相模の半島をお立ちになつて、お船で上総へ向つておわたりにならうとしました。すると途中で、そこの海の神がふいに大浪を巻き上げて、海一面を大荒れに荒れさせました。命の船は忽ちくるくる廻り流されて、それこそ進むことも引きかへすことも出来なくなつてしまひました。

 そのとき命がおつれになつてゐた、お召し使ひの弟橘媛(おとたちばなひめ)は、

 「これはきつと海の神の祟りに相違ございません。私があなたのお身代りになりまして、海の神を宥めませう。あなたはどうぞ天皇のお言ひつけをお仕とげ下さいまして、目出たくあちらへおかへり下さいまし。」と言ひながら、菅の畳を八枚、皮畳六枚に、絹畳を八枚かさねて、浪の上に投げ下させるや否や、身を翻してその上へ飛び下りました。

 大浪は見る間に、忽ち媛をまき込んでしまひました。するとそれと一しよに、今まで荒れ狂つてゐた海が、ふいにぱツたりと静つて、急に穏かな凪ぎになつて来ました。

 命はそのおかげでやうやく船を進めて、上総の岸へ無事にお着きになることが出来ました。

鈴木三重吉『古事記物語』

鈴木三重吉の『古事記物語』では、「あづまはや。」と嘆いたのは足柄山。

 足柄山の坂の下で、お食事をなすつてお出でになりますと、その坂の神が、白い鹿に姿をかへて現はれて、命を見つめて突ツたつてをりました。

 命は、それを御覧になると、お食べ残しの蒜(にら)の切はしをお取りになつて、その鹿を目がけてお投げつけになりました。すると、それが丁度目にあたつて鹿はばたりと倒れてしまひました。

 命はそれから坂の頂上へお上りになり、そこから東の海をおながめになつて、あの哀れな橘媛のことを、つくづくとお思ひかへしになりながら、

 「あづまはや。」とお嘆きになりました。それ以来そのあたりの国々をあづまと呼ぶやうになりました。

鈴木三重吉『古事記物語』

詩 碑に戻る