旅のあれこれ文 学


藤原定家ゆかりの地

 『小倉百人一首』の歌「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ」で知られる。

嵯峨野の小倉百人一首文芸苑に歌碑がある。



小倉百人一首第九十七番

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに

   焼くやもしほの 身もこがれつつ

権中納言。『小倉百人一首』の撰者。

応保2年(1162年)、藤原俊成の二男として生まれる。

 後鳥羽院の院宣により源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の6人が『新古今和歌集』撰者に定められた。

 承久4年(1222年)8月16日、辞参議。

 寛喜4年(1232年)正月30日、権中納言。

 貞永元年(1232年)、後堀河天皇から勅命を受け、文暦元年(1234年)に藤原定家が『新勅撰和歌集』撰定。

仁治2年(1241年)8月20日、薨去。享年80。

18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』を残した。

世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ。

『明月記』

栃木県栃木市の大神神社に藤原定家の歌碑がある。



暮るる夜は衛士のたく火をそれと見よ室の八嶋も都ならねば

兵庫県神戸市の布引の滝に定家の歌碑がある。



布引の滝のしらいとなつくれは絶えすそ人の山ちたつぬる

高崎市に定家神社がある。


道より西に佐野村あり。佐野舟橋を渡せし川有。名所也。古歌多し。舟橋をつなぎし木なりとて、近き比まで有しと云。今はなし。佐野源左衛門恒世が舊宅も佐野に有。定家の森、定家の明神有。名所にはあらず。


伊丹市の昆陽池公園に伝藤原定家の漢詩碑がある。



冷泉家は藤原定家の子である御子左家六代・為家の子・冷泉為相から始まる。

定家の歌

   名所歌たてまつりける時

秋とだに吹あへぬ風に色かはる生田の森の露の下草

   名所歌たてまつりける時

移りあへぬ花の千種にみだれつゝ風の上なる宮城野の露

   前参議に侍ける時、布引の滝見に罷りてよみ侍ける

音にのみ聞きこし滝も今日ぞ見る在りて憂き世の袖や劣ると

   下野国にまかりける人に

立ち添ひてそれとも見ばや音に聞く室の八島のふるき煙を


   題しらず

山里は蝉のもろ聲秋かけて外面の桐の下葉おつなり


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