紀行・日記



『相馬日記』(高田與清稿)

 文化14年(1817年)8月17日、高田与清が神田川辺りを出発し、千葉まで旅行した時の11日間の日記。

 高田与清(ともきよ)は国学者。村田春海に学ぶ。武蔵の人。本姓は小山田、一時高田家の養子。号は松屋(まつのや)

弘化4年(1847年)、没。

   十七日

御世の名を文化十四年とまうす年の、はつき十七日の辰時ばかりに、鹿嶋立して、神田川邊なる松かげの家をいづ。かしま立といふは、たびみちにおもむく人、まづ鹿嶋の武甕槌大神(たけみかづちのおほがみ)にまうづるわざをして、かどでをいはふなり、こはさやげりなりし國をむけやはしてたまひし大神なれば、道のほどの平ならんねぎごとをもまうすにや。

○湯島の圓滿寺の近隣にすめるくすし武内直躬がもとをとぶらひて、ともなひぬ。こはかねてよりいひきしつればなり。

○おとはのごゝくじのくわんおん・ざふしがやのきしも神などにまうでゝ、しひなまち・長崎・かみいたばしなどいふ所をすぎゆく。

谷原村の谷原山長命寺は、世にあづまの新高野ともよぶ。すべて紀のくにの高野山になずらへてつくりなせり。

長命寺南大門


かくして野火留の里の菅谷生々(まさたゞ)が家にたどりつく。あるじはもと東の都人なるが、たのみし君のおほせをうけて、としごろここにはすめる也。此やどのさま夜のむしのなく音にきゝ耳ふり立られ、晝の千草のながめまでおもひやられて、とりあつめたるあはれさのかぎり、えもいひがたし、

   ひるよるの打見にきゝになぐさめて千艸に虫にまかせたる宿

   十八日

十八日、生々・直躬うちつれて、金鳳山平林寺にまうづ。塔頭聯芳軒のあるじ道阿老師は、くちおもしろき歌人なり。こゝに明の獨立禪師の碑文(いしぶみ)あり。享保三年四月に、その門人玄泰がえらびしなり。平林寺は埼玉郡岩槻の平林寺村にありけるを、元禄といふとしのころ、こゝに引うつされしとぞ。伽藍堂塔むねをならべて、またなき法(のり)の庭のさまいとたふとし。

平林寺


あさ篠原の細道をおくふかくわけいれば、野火留の塚あり。廻國雜記に見えて、ふるくよりかたりつぎたる也。九十九塚・業平塚などいふは伊勢物語によりてしひごとまうけしなるべけれど、これもむげにちかき世のしわざにもあるまじくや。

   廿四日

むらぎみ齋藤徳左衛門が家をとぶらひしに、あるじよろこびて、俳諧師鳥醉がこの里に遊びしをりしるせし記(ふみ)などとう出て見せたり。

まためくるめくばかりの深きほりきをわたりて、八幡廓にうつる。將門がいつきまつりし妙見八幡とまうすがこゝに鎮座(しづまりまし)しを、今はこもり山の西林寺にうつしまゐらせたりといふ。

籠山西林寺


こもり山の擁護山西林寺は、ふるくは茶畠山清浄光院といへりとぞ。八幡廓より移しすゑまゐらせたる妙見八幡の宮あり。この寺あるじ鶴老師は、何くれのみやびに心よせふかくて、東都のきこえ人にも交を結ばれし人なり。余がとぶらへるをよろこばして、そうこたちに茶を煮させなどしつゝ、もてなさるゝさまいとまめまめし。

今宵は文伯が家にやどる。鶴老師・齋藤氏相ぐしておはしたれば、よもすがら宇治大納言物語のこうぜちして人々丑の四などいふころにねぬ。

   廿六日

取手のすくも遠からぬ間(ほど)なれば、吾友澤近嶺が家をとぶらはゞとおもひしかど、いそぐ道なればさてやみぬ。近嶺はくちおもしろき歌人にて、せうそこのたびごとにたよりうれしくまなこのごはるゝを、とはでしも過ぬるほいなきわざ也。彼きかばうらむべし。我もいとくやし。

旧取手宿本陣


舟のまうけまで、かねて文伯がおきてせしかば、平に布佐の津にはてぬ。布川の里は東北の岸に見ゆ。このごろ順行・傳四郎・文伯などがまめしきあるじまうけの心ばへは、詞にも筆にものべつくしがたし。

とかくして成田の里不動尊の御あらかにまうでつく。むかし見しにはやうかはり、棟をならべ、いらかをかさねて、堂塔壯嚴たぐひなき靈場(のりのには)のありさま也。別當を成田山新勝寺といふ。眞言宗の大寺なり。

成田不動尊


そもそも坂東に不動明王の古靈塲(みあらか)三所あり。相摸國大住郡の大山寺と、武藏國多摩郡の高旗寺とこの新勝寺となり。

   廿七日

また千葉笑とて、としごとのしはすのつごもりの夜、里人この寺によりつどひ、各おもておほひして、地頭・村長などの邪曲(よこしま)事よりはじめ、人のよからぬふるまひどもをあげつらひのゝしり合ふことありといへり。こは人々のおこたりをいさむるわざなれば、筑波嶺のかゞむなどには、いといとまされる風俗(ならはし)といふべし。

二子村の寳珠山多門寺・中山の正中山法華寺・鬼越村の八幡山法漸寺などにまうづ。法華寺は鎌倉大草紙に、日祐上人中興せられしよし見ゆ。開基は永仁年間の人にて、日常上人といひけりとぞ。

法華寺


八幡の里の八幡宮は、馬手(めで)の方の林中に在ておくまりたる宮居也。八幡宮は一宮・國分二寺・安國寺などやうにいづれの國にもありといへり。

葛飾八幡宮


○こゝを出て眞間ざまへたどりゆく。名にふりたる繼橋は、弘法寺の門の小川に渡せる橋也といふ。按(おもふ)に、繼橋は木竹にもあれ、舟筏にもあれ、つぎならべて造りし橋なめれば、かゝるさをばしにはあるまじくや。まゝといふも土の心まゝにくづるゝ所ならんとおぼゆるに、今の國府臺は太井川に臨たる岡にて、水の心まゝに崩るゝママ(※土+重)なれば里の名にもむおひ、この太井川に繼渡せる橋なればつぎはしともいへるなるべし。

眞間の手兒名がおくつき處は、池の邊に手兒女明神とて社あり。

○石坂をのぼりて眞間山弘法寺にまうづ。庭に青葉の楓といふがあり。

國府臺は此邊にならびなき高岡(たかきをか)にて、二度軍を覆せし跡なれど、今は安國山總寧寺てふ大寺立て、法(みのり)の音常にたえざれば、討死にせし兵士(ものゝふ)等が怒の魂もなごみぬらんといとたふとし。

○市川の渡は吾妻鏡や仙覺律師(りし)が萬葉庭訓に太井川としるせし河也。俗には江戸川とよぶ。吾黨(とも)小竹茂仲のをぢが説に、江戸川といふは舟人の詞よりあやまれる名也。そは下總の境、關宿わたりより、此川筋を經て江戸へ通ふがゆゑに、舟人のわたくしに、さはよびけるを、近頃はたゞしき名とぞおもへるものもすくなからずといへり。

市川関所跡


○逆堰(さかさゐ)の渡は東葛西と西葛西との境にて、河の名を中川といふ。太井と隅田との中を流るればなるべし。網うち釣たれし人、舟にも岸にもおほかり。おのれしのびにあみだぶつとてひつゝ過るに、いをはすくわれぬべくや。

○兩國橋の上に立てとみかう見するに、まことに吾妻の都といひしもことわりにて、にぎはしさよにたとふべき所とぞおぼゆる、ひとゝせの春、吾師錦織翁(にしごりのおきな)とゝもに隅田河にせうえうせしをり、

   さかりなり今は吾妻の都鳥すみだ河原の八重櫻花

とよみしことさへおもひ出られぬ。

都鳥


○柳橋なる茂仲のをぢが家をとぶらひしに、まもりめのわらは居て、今日はおはせずとこたふ。余(まろ)が出たつをりせうそこのはしに、

およびをりてうまやうまやと行めぐり君かへりこん日をまつわれは

と書て、風のけにふされて見おくりまゐらせぬがくちをしくなん、といひおこせたりしが、今はおこたれるなるべし。

○かたゆふぐれはかり松の下菴にかへりつきて、とかくするほどに、夜めぐりのはうしぎはいつゝ打ならしすぎ、上野・本石町の鐘は八こゑひゞきあひてきこゆ。

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