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柴屋軒宗長

『宗祇終焉記』 ・ 『東路のつと』

 宗祇に師事し、連歌を学ぶとともに、駿河国の守護今川氏に仕える。初名宗歓。宗長は早雲にも親しく会った人間である。

 文安5年(1448年)、駿河国島田に鍛冶職人五条義助の次男として生まれる。

 文正元年(1466年)、宗祇が関東に下向する途中、駿府に義忠を訪ねた。宗長は義忠の仰せで宗祇を清見が関に案内したそうだ。

 文明12年(1480年)、宗祇の「筑紫道記」の旅に随行。

 文亀元年(1501年)、宗長は越後の国府に師の宗祗を訪ねる。

 文亀2年(1502年)7月30日、宗祇は箱根湯本で客死。宗長は宗碩と共に随従して「宗祇終焉記」を残している。

 永正6年(1509年)7月、宗長は駿河を出て奥州白河を目指すが、戦乱のため断念し、関東各地を歴遊。12月鎌倉に着く。『東路のつと』

 大永2年(1522年)5月、宗長は小夜の中山を訪れた。

 JR東海道本線島田駅北口に「宗長庵趾」がある。

 丸子宿(現在の静岡市駿河区丸子)吐月峰へ草庵「柴屋」を営み晩年を過ごした。

享禄5年(1532年)3月6日、駿河の府中で没。享年85歳。

「宗長庵趾」に宗長の句碑がある。


〜遠江国、国(故郷の意)の山ちかき所の千句に

こゑ(声)やけふ(今日)はつ蔵(初倉)山のほととぎす〜

宗長の句

伊勢の国に修行しける頃、関の地蔵とかやにとまりたるに、宿に橘のさかりなりければ

宗長法師

橘のかにせゝられて寐ぬよかな


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