曇天微風あり、巖谷小波先生その新著金色夜叉の眞相一巻を送らる。聞く所によれば此書中にはの大橋新太郎の妻お須磨といへるもの、紅葉館の女中をなしゐたりし頃の事審に書しるされど、盖過般博文館版權問題にて先生を訴へし事あり、之がため先生大に憤激して新太郎の私事を訐きしなりと云ふ、
『斷腸亭日乘』(昭和2年12月30日) |
明治3年(1870年)7月4日、東京府東京市麹町区に生まれる。 明治29年(1896年)、木曜会を始める。 |
小波先生自ら還暦を祝し狂詩六十一年行を賦し、之を知人に配布せらる、辭句の妙藝術家を以て自任する當世文士等の到底模し得べきものならず、先生が滑稽の才に富めるは方に蜀山人に比すべし。此日立春なり、
『斷腸亭日乘』(昭和5年2月4日) |
大正2年(1913年)、函館を訪れ童話会に出席、終了後五稜郭を逍遙した。 |
晴又陰。夜銀座街上にて金子紫草生田葵山に逢ふ。紫草曰く小波先生の病は大膓の外部に癌を生じたるものにて餘命恐くは半歳を保たざるべしと。
『斷腸亭日乘』(昭和8年8月15日)
午前驟雨あり。西南の風烈し。ホ(※「日」+「甫」)下葵山子より電話あり。小波先生病いよいよ危篤に陷ると云ふ。車にて赤十字社病院に赴く。撫象春生其他の諸子に就いて先生の病状を問ひ薄暮辭して銀座に行く。
『斷腸亭日乘』(昭和8年9月4日) |
昭和8年(1933年)9月5日、直腸癌のため日本赤十字病院で没。64歳。墓所は多磨霊園にある。 |
晴。小波先生今朝八時過終ると云ふ。夕刊の新聞に辭世の句あり。極樂の乘物はこれ桐一葉。
『斷腸亭日乘』(昭和8年9月5日)
午後三時小波先生葬式青山会館にて執行せらるゝを以て之に赴く。葬式は邪(ママ)蘇教にて行はる。
『斷腸亭日乘』(昭和8年9月6日) |