紀行・日記



『更級日記』(菅原孝標女)

京への旅

寛徳2年(1045年)11月20余日、菅原孝標女は石山寺に3日参籠。

霜月の廿よ日、石山にまゐる。雪うち降りつゝ、道のほどさヘをかしきに、逢坂の関を見るにも、むかし越えしも冬ぞかしと思ひ出でらるゝに、そのほどしもいと荒う吹いたり。

   逢坂の関のせき風吹く声はむかし聞きしにかはらざりけり

永承元年(1045年)10月27日、菅原孝標女は長谷寺に到着。3日参籠。

初瀬川などうち過ぎて、その夜御寺に詣で着きぬ。祓へなどしてのぼる。三日さぶらひて、あかつきまかでむとてうちねぶりたる夜さり、御堂の方より、「すは、稲荷より賜はるしるしの杉よ」とてものを投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば夢なりけり。

永承4年(1049年)、菅原孝標女は再び石山寺に参籠する。

 二年ばかりありて、又石山にこもりたれば、夜もすがら、雨ぞいみじく降る。旅居は雨いとむつかしきものと聞きて、しとみをおしあげて見れば、有明の月の、谷の底さヘくもりなく澄みわたり、雨と聞えつるは、木の根より水の流るゝおとなり。

   谷河の流れは雨ときこゆれどほかよりけなる在明の月

永承4年(1049年)、菅原孝標女は再び長谷寺に3日参籠する。

 又初瀬に詣づれば、はじめにこよなくものたのもし。ところどころにまうけなどして、行きもやらず。山城の国はゝその森などに、紅葉いとをかしきほどなり。初瀬川わたるに、

   初瀬川たちかへりつゝたづぬれば杉のしるしもこのたびや見む

と思ふもいとたのもし

 三日さぶらひて、まかでぬれば、例の奈良坂のこなたに、小家などに、このたびは、いと類ひろければ、え宿るまじうて、野中にかりそめにいほ作りてすゑたれば、人はたゞ野にゐて夜を明かす。草の上にむかばきなどをうちしきて、上にむしろをしきて、いとはかなくて夜を明かす。かしらもしとゞに露おく。あかつきがたの月、いといみじく澄みわたりて、世に知らずをかし。

   ゆくヘなき旅の空にもおくれぬはみやこにて見し在明の月

 甥どもなど、ひと所にて、朝夕見るに、かうあはれにかなしきことののちは、所々になりなどして、誰も見ゆることかたうあるに、いと暗い夜、六郎にあたるをひの来たるに、めづらしうおぼえて、

   月も出でで闇にくれたるをばすてに何とて今宵たづねきつらむ

とぞいはれにける。

紀行・日記