旅のあれこれ文 学


藤原実方

 小倉百人一首の歌「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」で知られる。

藤原実方(?−998)は光源氏のモデルとも言われている。

 長徳元年(995年)正月、実方は陸奥守となり、9月陸奥へ赴任。

實方朝臣、みちのくにへくだり侍りけるに、餞
すとてよみ侍りける
中納言隆家
別路はいつも歎きのたえせぬにいとゞかなしき秋の夕暮

返し
實方朝臣
とゞまらん事は心にかなへ共いかにかせまし秋のさそふを


 長徳4年(998年)、阿古耶の松を訪ねた。

11月13日、笠島道祖神社の前を通過した途端落馬し、一命を落した。

みちのくの阿古耶の松をたずね得て身は朽ち人となるぞ悲しき

藤原実方朝臣(中将)の墓


藤原実方の墓碑


 文治2年(1186年)の秋、西行法師は実方の墓を訪れた。

陸奥の國にまかりたりけるに、野の中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中將の御墓と申は是が事なりと申ければ、中將とは誰がことぞと、又問ひければ、實方の御事なりと申ける、いとかなしかりけり。さらぬだに物哀に覺えけるに霜枯れ枯れの薄、ほのぼの見えわたりて、のちに語らんも言葉なきやうにおぼえて

朽ちもせぬその名ばかりを留め置て枯野の薄形見にぞ見る


山形市の万松寺にも実方中将の墓がある。


宮城県柴田郡村田町の韮神山に藤原実方の歌碑がある。



やすらはでおもひ立ちにしみちのくのありけるものははばかりの関

実方の歌

都には聞き旧(ふ)りぬらんほとゝぎす関のこなたの身こそつらけれ