明治18年(1885年)1月20日、鳥取県邑美郡吉方町(現:鳥取市吉方町)に父信三・母なかの次男として生まれる。 明治19年(1886年)1月13日、法美郡立川町(現:鳥取市立川町)へ転居。 明治30年(1897年 )、鳥取県尋常中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)入学。 明治35年(1902年)9月、第一高等学校(一高)法科に入学。一高俳句会に参加。夏目漱石に英語を習う。 明治36年(1903年)、一高俳句会で荻原井泉水を知る。 明治42年(1909年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 明治43年(1910年)、東洋生命保険に就職。 明治44年(1911年)、坂根馨と結婚。 大正4年(1915年)12月、「層雲」に放哉の句が載る。 大正12年(1923年)、京都の一灯園で托鉢生活に入る。 大正13年(1924年)6月、須磨寺大師堂の堂守となる。 大正14年(1925年)5月、小浜常高寺の寺男となる。 大正14年(1925年)8月20日、西光寺杉本玄々子(宥玄)の好意で奥院南郷庵(みなんごあん)の庵主として居住。 大正15年(1926年)4月7日、西光寺奥之院南郷庵にて没す。 |
去年八月、「放哉送別」の句を作る、思はざりき、 今、「放哉告別」の句を出さんとは。四月八日、彼 の死を電知し、「死んだら土をかけてくれよ」との 生前の約に依り、小豆嶋に赴く。彼の庵は土庄の 南郷庵なり 好い松持つて死に場所としてゐた 草もゆる土塀から出ずにしまつた |
昭和2年(1927年)9月、尾崎放哉の句碑を建立。 昭和3年(1928年)7月、種田山頭火は放哉墓参のため小豆島を訪れた。 昭和5年(1930年)、鳥取の興禅寺に句碑を建立。 |
眼の前魚がとんで見せる |
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島の夕陽に来て居る |
咳をしても一人 | 放哉 |
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その松の木のゆふ風ふきだした | 山頭火 |
翌は元日がくる仏とわたくし | 放哉 |
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為ることはこれ松の葉を掃く | 井泉水 |
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