慶長17年(1612年)4月、宮本武蔵は小倉を訪れ、細川藩家老長岡(松井)佐渡興長を訪ね、佐々木小次郎との試合の許可を依頼した。 慶長17年(1612年)4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎は巌流鳥で決闘。 元和4年(1618年)、宮本武蔵は明石藩主小笠原忠真の客分として明石に迎えらる。 寛永3年(1626年)、宮本伊織は15歳で小笠原忠真に仕える。 寛永17年(1640年)、宮本武蔵は細川忠利公から熊本に招かれ、「五輪の書」などの兵法書を書く。 正保2年(1645年)5月19日、宮本武蔵は千葉城(熊本)の屋敷で亡くなる。享年62。 承応3年(1654年)4月19日、宮本伊織が宮本武蔵の碑を建立。 |
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