寛永十年尾州亜相公(義直郷)林家別荘の地に(今東叡山にある所の山王の社は、昔聖堂ありし地にして、林家別荘の旧地なり。)一廈(いつか)を経営あつて、聖堂ならびに願曾思孟の像を置きて、先聖殿と号け給ひしに、その後回禄の災(わざはひ)に罹(かか)れり。遂に元禄四年台命あつて今の地に遷させられ、御造営有りしより己隆(このかた)、春秋二度の釈奠(しやくてん)怠ることなし。公はさらなり。国々の列侯より献備の品ありて、いと厳重に執り行はる。儒宗林祭酒世々これを司る。本邦第一の学校にして実に東都の一盛典なり。(寛政の今御造営ありて結構昔に倍せり。)釈奠二月八日上(かみ)の丁(ひのと)の日に行はる。この日宗六君子の画像を掛けらる。従祀(程明道・程伊川・邵(せう)康節・張横渠・周茂叔・朱文公) |
聖堂の北にあり、唯一にして江戸総鎮守と称す。 祭神 大己貴命・平親王将門の霊 二坐 社伝に日く、人皇四十五代聖武天皇の御字、天平二年の鎮座にして、そのはじめ柴崎村に(その旧地神田橋御門の内にあり。)ありし頃、中古荒廃し既に神燈絶えなんとせしを、遊行上人第二世真教坊、東国遊化の砌こゝに至り、将門の霊を合せて二座とし、社の傍に一字の草庵をむすび、芝崎道場と号す(今の浅草日輪寺これなり)。その後慶長八年当社を駿河台にうつされ(その頃日輪寺は柳原にて地をたまふ。)、元和二年また今の湯島にうつさせらる。その儘旧号を用ひて神田大明神と称す(神主は代々柴崎氏なり。) |
妻恋明神の北の方にあり。太田道灌江戸の静勝軒にありし頃(文明十年六月五日なり。)夢中に菅神に謁見す。翌朝(あくるあした)外より菅丞相親筆の画像を携へ来る者あり。乃ち夢中拝する所の尊容(みすがた)に彷彿たるを以つて、直ちに城外の北に祠堂を営み、かの神影を安置し、且梅樹数百株(ちゆう)を栽ゑ、美田等を附す。即ち当社これなり。(以上『諸社一覧』、『江戸名所記』等の書に出づるといへども、恐らくは誤りならん麹町平河天神に菅丞相親筆の画像と称するものありて、かへつて当社にこの影(えい)あることなしその論あれども爰に略す。) |
同所北の方にあり。臨済宗江戸四箇寺の一なり。旧(もと)報恩山天沢寺と称せしが、春日局の法号を取つて麟祥院とあらたむ)本尊は釈迦如来。開山は渭川劉和尚。(京師(みやこ)花園妙心寺より招かせらる)、本願は春日局なり。(三代大将軍の御乳母人(おちのひと)、斎藤利三の女(むすめ)にして、稲葉侯正成の室なり。寛永十八年九月十四日六十五歳にして没す。麟祥院殿従二位了義大姉と号す。) |
(又篠輪津に作る。)東叡山の西の麓にあり。江州琵琶湖に比す。(不忍とは忍の岡に対しての名なり。)広さ方十丁許り、池水深うして旱魃にも涸るることなし。殊に蓮(はちす)多く、花の頃は紅白咲き乱れ、天女の宮居はさながら蓮(はちす)の上に湧出するが如く、その芬芳(かおり)遠近の人の袂を襲う。 |
不忍池の中島にあり。当社は江州竹生島のうつしにして、本尊弁財天および脇士多門・大黒の二天、ともに慈覚大師の作なり。 社伝に曰く、往古東叡山草創の時、慈眼大師この池を江州の琵琶湖になぞらへ、新たに中島を築き立てて、弁天の祠を建立せられしと云々。(『江戸名所記』には、水谷伊勢守建立せらるゝとあり。) |
円頓院と号す。人皇百九代後水尾帝の御宇、寛永年中比叡山延暦寺に比せられ、江城の鬼門を護るの霊区として、慈眼大師草創あり。爾(しかありし)より巳降(このかた)、代々一品法親王座主として、今天下第一の梵刹たり。 |
文殊楼の後左の方にあり。大石燈籠(同所構への外にあり。高さ二丈あまり。笠石の径り(わた)一丈二尺、棹石三囲、京師南禅寺・尾州熱田社と当山とをあはせて、日本に三つの大石燈籠なり。いづれもおなじ人の造立する所にして、比類なし。銘に買水八年孟冬十七日佐久間大膳亮勝之とあり。) |
(京師(みやこ)清水寺に比して舞台造りなり。この辺殊更に桜多し。本尊千手大悲の像は、恵心僧都の作にして、主馬盛久が守り本尊なりとぞ。長門本『平家物語』に、盛久斬首の罪に処せらるゝ時、清水観音の加護によりて刀杖(たうぢやう)段々に折れて命を助けらるゝ事を載せたり。されど『東鑑』およびその余の書にもこの事を見ず。) |
上野谷中門の外にあり。天台宗にして、本尊は伝教大師の作の毘沙門天を安置す。当寺始めは日蓮宗にして、宗祖上人を開山とし、日長上人中興ありて、由々舗(ゆゆしき)一宗の寺院たりしが、元禄年中故ありて台宗に改められ、爾(しかりし)より後東叡山に属す。その時大明院宮の御願によりて、叡山横川にありし伝教大師の作の毘沙門天の像をこゝに移し、本尊とせらる。京師鞍馬山の毘沙門堂は比叡の乾(いぬゐ)に当りて、仏法守護の道場なれば、当寺も東叡山の乾に当るを以つて鞍馬寺に比せらるゝといへり。境内に桜桃の二花(じくわ)ありて春時爛漫たり。 五層の塔(始め当寺中興の祖日長上人建立ありしが、明和九年の火災に焦土となれり。仍つて寛政の今再建してむかしに復せり。) |
同所北の通りにあり。日蓮宗にして開山は日玄上人、大永六年に草創す。往古(むかし)は太田道灌の建立なりといへり。当寺庭中に道灌斥候塚(ものみづか)と称するものあり。 |
観王院と号す。同所北の方にあり。本尊は三尊の弥陀佛。開山は木食義高上人(伝は前(さき)の円満寺の条下につまびらかなり。) 観音堂(西国坂東秩父百番の札所をうつせり。)本尊如意輪観音(仏工春日の作にして、西国札所第一番紀州那智山のうつしなり。) 十一面観音(弘法大師の作にして、坂東札所第一番相州鎌倉杉本のうつしなり。)正観音(慈覚大師の作にして、秩父札所第一番四万部寺(しまぶでら)の摸(うつし)なり。) |
一名(いちみやう)を城山ともいへり。南は新堀(につぽり)を限り、北は平塚に接す。往古(むかし)太田道灌江戸城にありし頃、出張(でばり)の砦城とせし跡なりとも、又関道観坊(せきのだうくわんばう)といへる者の第宅(やしき)の地なりとも云ひ伝ふ(道観坊、はじめは小次郎長耀(ながてる)といふ。後、薙髪して道観坊と号(なづ)くるとぞ。谷中感応寺の開基にして、即ち感応寺を長耀山(ちやうえうざん)と称するもこのゆゑなり。)此地薬草多く、採薬の輩(ともがら)常にこゝに来り。殊に秋の頃は松虫・鈴虫、露にふりいでゝ静音(せいいん)をあらはす。依つて雅客(がかく)幽人こゝに来り、風に詠じ月に歌うてその声を愛せり。 |
上野より五町ばかりを隔て乾(いぬい)の方にあり。 祭神 素盞嗚尊(御産土神)相殿 左山王権現(御城の鎮守神)右八幡宮(源家の祖神)。 当社境内、始めは甲府公御館の地なりしが、根津権現は大樹の(文昭公)御産土神にして、御宮参までありける故、後に右の御館の地を賜はり、宝永年中新たに当社を御造営ありて結構備はる。随身門に掛かくる根津大権現の額は、大明院宮抗弁法親王の真蹟なり。旧地は千駄木坂の上、元根津といへるところにあり。(祭礼は隔年九月廿一日なり。) |
駒込浅香町にあり。伊州赤目山の住職万行和尚回国の時、供奉せし不動の尊像屡(しばしば)霊験あるに仍つて、その霊験を恐れ、別に今の像を彫刻してかの像を腹籠とす。
則ち赤目不動と号し、この所に一宇を建立せり。(始め千駄木に草堂をむすびて安置ありしを、寛永の頃大樹御放鷹の砌、今の所に地を賜ふ。千駄木に動坂の号(な)あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。)後年(のち)終に目黒・目白に対して目赤と改むるとぞ。 |
同所壱町ばかり北の方にあり。曹洞の禅宗にして江戸檀林の一なり。因つて旃壇林と号す(諏訪明神の敷地なる故に、諏訪山と号す。今猶境内に鎮座。)本尊は釈迦如来、開山は青巌周陽禅師なり。 当寺は、長禄年中、太田持資江戸城を営みし頃、かしこに井を掘りしに、土中より吉祥増上の文字ある銅印を得たり。依つて吉瑞なりとて一宇を建て、直ちに吉祥庵と号(なづ)く。(今御城の中(うち)和田倉その旧地なりとぞ。)その後北条幕下遠山丹波守中興す。天正年中御城御造営の時(五代目用山和尚現住の頃なり。)神田の台に地を賜ひ、寺領等を附せられ、遂に明暦三年今の地にうつさる。(水道橋は、当寺神田の台にありし頃の表門の地なりとぞ。故に寛文年中江戸絵図にも、水道橋を吉祥寺橋と記せり。) |
数万歩(すまんほ)に越えたる芝生の丘山にして春花秋草夏凉冬雪の眺めあるの勝地なり。始め元享年中豊島左衛門飛鳥祠(あすかのやしろ)を移す。(祭神事代主命なり。)因つて飛鳥山の号(な)あり。寛永年中王子権現御造営の時、この山上にある飛鳥祠を遷して、権現の社頭に鎮座なしけり。その後元文の頃台命によつて桜樹数千株(ちゆう)を植ゑさせられ、内には遊観の便(たつき)とし、外には蒭堯(すうげう)の為にす。年を越えて花木林となる。爾(しかり)しより騒人墨客は句を摘み章を尋ぬ。牧童樵夫は秣(まぐさ)を刈り薪をとる。殊にきさらぎ・やよひの頃は桜花爛漫として尋常(よのつね)の観にあらず。熊野の古式に春は花を以つて祀(まつ)るといへるに相合するものか歟。 |
飛鳥山の北の方、音無河を隔ててあり。 本殿 祭神 伊弉冊尊。左速玉男命。右事解男命。三神鎮座。 社記に曰く、若一(にやくいち)王子の社は紀伊国熊野権現を勧請す。 後醍醐天皇の御宇元享年中、豊島何がしの主とかや、新たに祠宇を建てて崇めけるが、風霜ふり、歳月深うして、朝の霧は香を焚くかとあやしみ、夜の月は燈を挑(かか)ぐるに似たり。霊神は人の敬ふによりてその威をまし、境値は霊神の徳によりてその名を顕す。つらつらこの神の本を尋ぬれば、伊弉諾・伊弉冊の尊と申す二柱のみこと、国土(くにつち)をうみ万の物をうめり。その広大の功徳既に成りて後、伊弉冊尊神退(かんさり)ましければ、 紀州熊野の有馬村におさめまつる。熊野大神これなり。この神を祭るには、春は花をもて祭り、鼓うち、笛吹き、旗立てて諷ひ舞うて祭る。 白河院の御製に、咲き匂ふ花のけしきを見るからに神の心ぞ空にしらるゝ、とよみ給へるは、花しづめの事なるべし。この神の御子を熊野早玉男とまうす。 その第二を泉津事解男(よもつことさかのを)と申す。延喜の帝の御時、諸国の神社を記されしに、紀伊国牟楼郡(むろのこほり)熊野早玉の神社とあるはこれなり。このゆゑに伊弉冊尊・早玉男・事解男これを熊野三所の権現といひならはせることになりぬ云々。 |
同北の方にあり。往古(いにしへ)は岸稲荷と号(なづ)けしにや。今当社より出すところの牛黄(ごわう)宝印にしか記せり。 本殿 倉稲魂命(聖観世音・薬師如来・陀枳尼天(だきにてん)。本宮 十一面観世音。 王子権現縁起に曰く、いづれの世にかありけん、この社の傍(かたはら)に稲荷明神をうつしいはひければ、毎年(としごと)臘晦(おほつごもり)の夜、諸方の命婦この社へ集まり来る。そのともせる火の連なりつゞける事、そくばくの松明(たいまつ)を並ぶるが如く、数斛(すこく)の螢を放ち飛ばしむるに似たり。その道野山を通ひ河辺をかよへる不同を見て、明年の豊凶を知ると聞ゆ。命婦の色の白きと九つの尾あるは奇瑞のものなりと、古き書(ふみ)にありとなむ。(下略) |
(往古(むかし)は、こかはぐちといへり。)。『義経記』に、九郎御曹子奥州より鎌倉に至り給ふといへる条下に、「室の八島をよそに見て、武蔵国足立郡こかはぐちに着きたまふ。御曹子の御勢八十五騎にぞなりにける。板橋にはせ附きて、兵衛佐殿は』と問ひたまへば、おとゝひ、こゝを立たせ給ひて候と申す。武蔵の国府(こふ)の六所町につきて、佐殿はと仰せければ、『おとゝひ通らせたまひて候、相模の平塚にとこそ申しけると云々。 |
按ずるに、渡場より壱丁ほど南の方の左に府中道と記せる石標(みちしるべ)あり。これ往古(むかし)の奥州街道なり。これより板橋にかゝり、府中の六所町より玉川を渡りて、相模の平塚へは出でしなり。 |
川口村渡場の北にあり。天台宗にして平等山阿弥陀院と号す。本堂には阿弥陀如来・観音・勢至一光三尊を安ず。寺伝に曰く、往古定尊といへる沙門あり。法華経を誦するの外他なし。建久五年の夏一時(あるとき)睡眠の中に、信州善光寺如来の霊告を得る事あつて、直ちにかしこにまうで、正しく如来の聖容を拝す。示現に依つて、十方に勧進し財施を集め、金銅を以つて中尊阿弥陀仏を鋳奉る。時に建久六年己卯五月十五日なり。 |