永田馬場にあり。江戸随一の大社にして別当は天台宗僧正にして観理院と号す。神主は樹下氏なり。その余、社僧および社家巫女等数多(あまた)あり。御祭礼は隔年六月十五日なり。その行粧は初巻茅場町御旅所の条下に詳なり。 |
当社は淳和天皇の天長七年庚戌、慈覚大師勅によりて、武蔵国入間郡仙波にあるところの、星野山無量寺を再興ありて、円頓の教法を弘め給ひし頃、仏法王法護持の為、且つは和光の利益を普く万民に蒙らしめんと欲して、わが立つ杣の日吉山王二十一社、上中下の内より一社宛(づつ)を撰みて、三所の霊神を彼地(かしこ)に勧請し給ひ、かくて星霜を経たり。 然るに文明年中太田道灌、この山王三所の御神を星野山より江戸に遷し奉る。(その頃の社地は今の梅林坂のあたりにして、菅祠とならびてありしよし、大道寺友山翁の説なり。或人云ふ、太田家譜に、文明十年六月十五日、於二江戸城内に建山王権現堂・荒神祠・菅丞相祠一云々。菅祠は今の平川天神の事なり。御国初の頃迄は両社共に御城内にありしを、菅祠は平川口御門の外へ遷され、山王は御城の鎮守として紅葉山に遷座ましましけるなり。) |
御城の西、麹町三丁目の南、平河町にあり。別当は天台宗にして、長松山竜眼寺と号け、東叡山に属す。 伝へ云ふ、当社は文明十年戊戌六月廿五日、大田持資当国入間郡川越三芳野の天神を、江戸城に勧請し、数株の梅を栽(う)うると云々(今の御城内平川の梅林坂と唱ふるは、その梅林の旧跡なり。『新安手簡』に、文明中太田道灌築かれたりし江戸城、平川口の中、菅神の社上棟の文に、文明十年戊戌六月廿五日と有之云々。) |
すべて麹町の辺の総名なり。この地は昔より甲州街道にして、その路の傍にありし一里塚を土人甲斐塚と呼びならわせしとなり。或説に貝塚法印といへるが墓なりともいひて、さだかならず。(この地馬場の南は芝の青松寺の旧地なり。南向亭云く、青松寺は青松甲斐といふ人の草創にして、当時玉虫氏の邸にあるを貝塚といふ。上に古碑あり。年月もみえず、平氏女(たひらうぢむすめ)とばかりあり、今は八幡に祀ると云々。また麹町四丁目の南の方、玉虫氏の前なる坂を貝坂とよべり。一説には、この坂の下に甲斐庄氏(かひのしやううぢ)なる宅ありし故ともいへり。 |
尾州公御館と井伊家の間の坂を云ふ。清水谷と唱ふるもこの辺の事なり(麹町八丁目へ出づる坂下までも清水谷の内なり。)このところの井を柳の井と号(なづ)くるは、「清水流るゝ柳蔭」といへる、古歌の意をとりてしかいふとなり。富士見坂は松平出羽侯の前をいひ、玉川の滝は同じ庭中にあり。駒井小路は富士見坂の上の方なり。駒井氏はこゝに住せらるゝゆゑに号(な)とするといへり。 |
古(いにしへ)の郷名(かうみやう)なり。『和名類聚抄』にも荏原郡桜田(佐久良太。)とありて、その称尤も久し。(今は豊島郡に属せり。小田原北条家の所領役帳に、太田源七郎及び牛込宮内少輔勝行・興津加賀守・会田中務丞等、其余の所領にも往々桜田の地名を注し加ふ。桜田久保町・同兼房(けんばう)町・備前町の類ひ。また今の麻布六本木の南に桜田町と唱へてあるもの、同所百姓町等いづれも御入国の後、かしこに地を替へ給ひしなりとぞ。) |
井伊侯の藩邸表門の前、石垣のもとにあり。亘り九尺ばかり、石にて畳みし大井なり。釣瓶の車三つかけならべたり。或は云ふ、『事績合考』に、「井伊家中屋敷四ツ谷喰違の屋敷ともあり。若葉井は同所御堀端番屋の裏にあり、柳の木をうゑし故に柳の水ともいへり。いづれも清冷たる甘泉なり。 |
桜田御門の南、黒田家と浅野家との間の坂を云ふ。往古の奥州街道にして関門のありし地なり。(宗祇法師の『名所方角抄』に、霞が関は西に高き丘(をかやま)あり。東向の所なればふじはみえず、西より河はながれたりとあり。『武蔵風土記』に、荏原郡、東は霞が関に限るとあり。この地今は豊島郡に属せり。北村季吟翁云ふ、浮橋をすぎて霞村といふ所、霞が関の旧地なりといへど。霞村と云ふ地名なし。) |
麻布雑色にあり。(昔は亀子山と号しけるとぞ。)親鸞上人弘法(ぐほふ)の地にして、当宗関東七箇の大寺の一員、了海上人開山たり。亀山帝の勅願、本尊阿弥陀如来の像は恵心僧都の作なり。往古は、南紀の野山(やさん)に象(かたど)りて草創ありし梵宇にして、初めは真言密条の勝区たりしが、貞永元年壬辰(みずのえたつ)、了海師、親鸞上人の弘法に帰化し宗風を転ず。 |
同じ向う側、上行寺といへる日蓮宗の寺境にあり。其角、姓は竹下、父を東順といふ。(江州堅田の人、医を業とす。)榎本といふは母の姓なり。儒は寛斎先生に学び、詩は大顛和尚を師とす。書は佐々木玄竜の教を受けて、自ら一家の風あり。医は草苅氏某に就いて術を得、画は朋友英一蝶に倣ふ。延宝のはじめ芭蕉翁の門に入りて俳諧を学び、つひに名をなせり。雷柱子、狂雷堂、有竹居、六蔵庵、善哉庵、文庵、及び螺舎、渉川等の数号あり。晋子とはその戯号なるべし。幼稚の頃お玉が池に住み、後堀江町に移る。又芝の神明町、茅場町等にも庵せる事は『五元集』その余の俳書に見えたり。宝永四年丁亥二月晦日卒す。享年四十七。著(つく)る所の俳書凡そ二十余部、各世に行はる。 |
同所同じく西の方、目黒へ下る坂を云ふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す。 |
明王院の後の方、西に向へる岡をいへり。古へは楓樹数株梢を交へ、晩秋の頃は紅葉夕日に映じ、奇観たりしとなり。されど今は楓樹少くだゞ名のみを存せり。 |
同所坂下の小川に架(わた)せり。(目黒川といへり。)柱を用ひず、両岸より石を畳み出して橋とす。故に横面よりこれを望めば、太鼓の胴に髣髴(さもに)たり。故に世俗、しか号く。享保の末、木食上人(心誉をいう歟。)これを制するとなり。 |
同じ所の西百歩あまりにあり。泰叡山滝泉寺と号す。天台宗にして東叡山に属せり。開山は慈覚大師、中興は慈海僧正なり。 本堂不動明王 慈覚大師の作、脇士(けふし)は八大童子なり。 |
赤坂今井にあり。(この所を世に三河台といふ。天和の頃松平参河守様御屋敷なりし故に名とす。)別当は聖護院派の触頭(ふれがしら)にして、大乗院と云ふ。祭神当国一宮に相同じ。赤坂の総鎮守にして、祭礼は隔年六月十五日、永田馬場山王権現と隔年に修行す。(『江戸名勝志』、『惣鹿子』等の草紙に、当社元一木村にありしを、享保十五年己酉、今の地に遷座、社を御造営ありと云々。) |
同町一町ばかりを隔てゝ乾(いぬゐ)の横町、右側にあり。黄檗派の禅宗にして、始めは海蔵庵と号して、寛文十一年井伊候夫人掃雲院殿の営建なり。その頃鉄眼禅師をしてこの草庵に居らしむ。つひに正徳三年に至り公許を蒙り、一宇の蘭若とす。(菊岡沾涼云ふ、開山室州和尚と云々。)当寺より唐板の一切経を出す。 |
同所百人町右側にあり。信州善光寺本願上人の宿院にして、浄土宗尼寺なり。本尊阿弥陀如来御丈(みたけ)は一尺五寸、脇士(けふし)観音・勢至の二菩薩は共に一尺づゝあり。称徳天皇の慶雲元年八月十五日夜、法如尼和州当麻の紫雲庵にて念仏誦持(じゆぢ)の頃、信州善光寺の如来来現ありしを拝し奉り、直ちに一刀三礼にしてその御形を模(うつ)さる。 これ則ち当寺の本尊なり。当寺は永禄元年戊午の創建にして、始めは谷中にありしを、中興紅光蓮社心誉知善上人明観大和尚の時、宝永二年台命に依つてこの地へ遷されけるとなり。 |
同じ所、中渋谷にあり。この所の産土神とす。祭礼は八月一五日なり。 本社祭神 応神天皇一座(社記に云く、この神像は上古(そのかみ)弘法大師、豊前国宇佐八幡宮の告あるにより、しばらく山城国鞍馬寺に安置し奉りを、渋谷次郎高重護持して当社の神体とあがむると云々。本地仏阿弥陀如来の像は慈覚大師の作なり。円証阿闍梨東福寺創建の時、行脚の僧来りて授与せしとなり。) |
富士見坂の下、耕地を隔てゝ向ふの方、西へ登る坂をいふ。(此坂を登りて三町程行けば岐路(わかれみち)あり。直路(すぐぢ)は大山道にして、三間茶屋より登戸の渡、また二子の渡へ通ず。右へ行けば駒場野の御用屋敷の前通り北沢淡島への道なり。)世田ケ谷へ行く道なり。(道玄、或は道元に作る。)里諺に云ふ、大和田氏道玄は和田義盛の一族なり。建暦三年五月和田の一族滅亡す。その残党この所の窟中に隠れ住て山賊を業とす。故に道玄坂といふなり。 |
昌楽院と号す。深大寺邑にあり。(この所も佐須村と云ふ。昔は柏野里と号せしとなり。)太古は法相宗なりしが、恵亮和尚(くわしやう)以来(このかた)天台宗に改む。本尊は宝冠の阿弥陀如来、恵心僧都の作なりといふ。当寺は福満童子の宿願によりて、天平五年癸酉に草創する所の仏域なり。(『日本年代配合鈔』に曰く、天平勝宝二年庚寅深大寺建立云云。四十七代廃帝御宇に勅願所と定められしより、平城・清和両朝も又勅願所となし給ひしと云ふ。 元三大師堂 (本堂の前、左に傍ひてあり。寺記に云ふ、応和四年慈恵大師叡山に於て自ら彫刻なし給ひし霊像なりしを、慈忍和尚(くわしやう)と恵心僧都と心をひとつにし、武蔵国深大寺は代々の帝勅願の地にして尤も霊跡たり、永くこの影像を還し奉りて関東の群生を化益(けやく)せんとて、正暦二年春こゝに安置なす。爾来(しかりしより)霊応いちじるしく、月毎の三日・十八日、殊に正五九月の十八日には別業護摩供を修行あるが故に、近郷の人群参せり。この日門前に市を立てる。) |
同じ所、坂より下の低き地をいふ。古へ東奥・北越等の国々より京師及び鎌倉等へ至るの駅路にて、その頃は遊女の家居などありていとにぎはしかりしとなり。(この地に牛頭天王の叢祠あり。竹林の中に凹(くぼか)なる地あるを、古への北国街道の旧址なりといへり。) 『回国雑記』 恋が窪といへる所にて 朽ちはてぬ名のみ残れる恋が窪今はたとふもちぎりならずや |
府中の駅路の左側にあり。延喜式内大麻止乃豆乃(おおまとのつの)天神社これなり。後世に至りて同く式内小野神社を合せ祭る。故に今両者一社の称あり。(神主は猿渡氏、その余、社司・社僧等奉祀す。) 本社祭神、大巳貴命。相殿、素盞嗚尊・伊弉冊尊・瓊々杵尊・大宮女大神・布留大神。(以上六神、これを俗に六所明神と称せり。 天下春命(あめのしたはるのみこと)・瀬織津比当ス(せおりつひめのみこと)・稲倉魂大神(うがのみたまのおんかみ)(以上三神、これを客来三所の御神と称せり。すへて九神合せて共に六所宮と称す。この三神の事は一宮と小野神社との条下に詳なり。) |
高幡邑にあり。(『東鑑』に、高幡三郎と云ふ人の名あり。この所より出づる歟。)新義の真言宗にして花洛三宝院御門跡に属す。大宝より以前の開創にして、その後弘法大師再興あり、また慈覚大師再興すといふ。本尊不動明王は(古仏にして作詳(つまびら)かならず。)座像一丈余あり。 |