平川口御門の内にあり。文明十年の夏、太田持資或日、一室にありて午睡の中(うち)霊夢を感じ、翌日菅公親筆の画像を得てこゝに勧請し、梅樹数百株を栽う。よつて梅林坂の号ありと云ふ。(その菅神に宮は、今糀町平川町にある平川天満宮これなり。三巻の初め、平川天神の条下につまびらかなり)。平河は往古(そのかみ)上下とふたつにわかれてありし由、小田原北条家の古文書に見えたり。(本所の報恩寺、赤坂の浄土寺等の寺院、昔はこの地にありしとなり。) |
御本丸の大手より東の方、本町への出口にして、御門あり。橋の東詰北の方に御高札を建てらる。橋の東詰北の方に,御高札を建てらる。『金葉集』に,「色かへぬ松によそへてあづま路の常盤の橋にかゝる藤波」といへる古歌の意を,松平の御称号にとりまじへ,御代を賀し奉りての号なりといへり。(按ずるに、この橋の旧名を大橋といひ伝ふるは誤なり。慶長十三年の江戸絵図に、今の御本丸の下乗橋を、大橋としるしてあり。同図に、常盤橋をば淺草口橋としるせり。依つて常盤橋の大橋にあらざる事をしるべし。 |
日本橋より二丁ばかり西の方、同じ川筋にかゝる。この橋の南北に後藤氏両家(金座後藤庄三郎、呉服所後藤縫殿助)の宅ある故に、その昔、五斗五斗といふ秀句にて、俗に一石橋と号(なづ)けしとなり。(寛永の江戸絵図には、後藤橋とあり。斗の音トウなり。その頃は五斗(ごとう)と云ひしなるべし。)又この橋上より日本橋・江戸橋・呉服橋・銭瓶橋・道三橋・常盤橋・鍛冶橋等を顧望する故に、この一石橋を加へて共に八橋と云ふとぞ。(この橋の南詰、東の方へ行く河岸を西河岸町といふ。檜木問屋多く住する故、檜木河岸ともよべり。また菱垣廻船問屋その外諸方への舟宿多し。) |
南北へ架(わた)す。長さ凡そ二十八間、南の橋詰西の方に、御高札を建てらる。欄檻葱宝珠の銘に、万治元年戊成九月造立」と鐫(せん)す。この橋を日本橋といふは、旭日東海を出づるを、親しく見る故にしか号(なづ)くるといへり。(『事跡合考』に云ふ、日本橋のかゝりしは、慶長十七年の後歟とありて、その考へを記せり。されど『北条五代記』永楽銭制禁のことを記せし条下に、慶長十一午のとし極月八日、武州江戸日本橋に高札を建つる、とある時は、慶長十七年より以前なりとしるべし。)この地は江戸の中央にして、諸方への行程も、このところより定めしむ。橋上の往来は、貴となく賤となく、絡繹として間断なし。又橋下を漕ぎつたふ魚船の出入、旦(あした)より暮に至るまで、嗷々として囂(かまびす)し。 |
船町・小田原町・安針町等の間悉く鮮魚の肆(いちぐら)なり。遠近の浦々より海陸のけぢめもなく、鱗魚をこゝに運送して、日夜に市を立てて甚だ賑へり。 鎌倉を生きて出でけんはつがつを 芭蕉 帆をかぶる鯛のさわぎや薫る風 其角 |
小川町より小石川への出口、神田川の流れに架(わた)す。この橋の少し下の方に神田上水の懸樋あり、故に号(な)とす(この下の川は、万治の頃、仙台侯鈞命(きんめい)を奉じて、堀割らるゝ所なりといふ。)万治の頃まで、駒込の吉祥寺この地にあり。その表門の通りにありしとて、この橋の旧名を吉祥寺橋ともいへり。三崎稲荷は同じ西の方、土堤に傍(そ)ひてあり。この社ある故、南の街を稲荷小路と号(なづ)く。(社記に云く、当社は上古の勧請にて、年代不詳。近くは天文七年、小田原北条氏綱の造営たりと。又云ふ、この地は昔三崎村といひけるとぞ。因つて三崎稲荷とも称す。) |
昔は神田の台と云ふ。この所より富士峰を望むに掌上に視るが如し。故に、この名ありといへり(一説に、昔、駿府御城御在番の衆に賜はりし地なる故に、号とすといへども、証としがたし。) |
須田町より下谷への出口にして神田川に架す。御門ありて、この所にも御高札を建てらる。この前の大路を八ツ小路の辻と字(あざな)す。昌平橋はこれより西の方に竝ぶ湯島の地に聖堂御造営ありしより、魯の昌平郷に比して号けられしとなり。初めは相生橋、あたらし橋、又芋洗橋とも号したるよしいへり。太田姫稲荷の祠は、この地淡路坂の上にあり。旧名を一口(いもあらひ)稲荷と称す。(社記は『拾遺名所図会』に詳なり。)又東に柳森稲荷社あり(並に拾遺にこれを載す。) |
江戸川の下流にして、湯島聖堂の下を東へ流れ大川に入る。明暦より万治の頃に至り、仙台侯、台命を奉じ湯島の台を掘割り、小石川の水を初めてこゝに落さるゝと云ひ伝ふるは少しく誤るに似たり。古老の説に、慶長年間、駿河台の地闢(ひら)けし時に至り、水府公の藩邸の前の掘を、浅草川へ掘りつゞけられ、その土を以つて土堤を築き、内外の隔(へだて)となし給ふと云ふ。この説しかるべきに似たり。(按ずるに、昔は舟の通路もなかりしを仙台侯、命をうけたまはられし頃掘り広げ、今の如く舟の通路を開かれたりしなるべし。) |
石町三丁目の小路にあり。辻源七といへる者これを役す。この鐘、初めは御城内にありしとなり(その余、都城の繞(めぐ)りに有りて、候時を報ずるものすべて八ケ所なり。所謂浅草寺・本所横川町・上野・芝切通・市谷八幡・目白不動・赤坂田町成満寺・四谷天竜寺等なり。)銘に曰く。宝永辛卯四月中浣 鋳物師大工 椎名伊予 藤原重休 |
按ずるに、宝永七年十二月十九日、誓願寺前より出火し、石町のあたり焼亡す。その頃この鐘も焼けたりし故に、翌る宝永八年、鋳直されしなり。 |
両国橋より川下の方、浜町より深川六間堀へ架す。長さ凡そ百八間あり。この橋は元禄六年癸酉、始めてこれをかけ給ふ。両国橋の旧名を大橋と云ふ。故にその名によつて新大橋と号けらるゝとなり。 『風羅袖日記』 元禄五申年の冬、深川大橋なかばかゝりけるとき |
初雪やかけかゝりたるはしのうへ | 芭蕉 |
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同じく橋成就せし時 |
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ありがたやいたゞいて踏むはしの霜 | 同 |
茅場町薬師堂の辺(あたり)なりと云ひ伝ふ。元禄の末ここに住す。即ち終焉の地なり。 |
按ずるに、「梅の香や隣は荻生惣右衛門」といふ句は、其角翁のすさびなる由、普(あまね)く人口に膾炙す。依つてその可否はしらずといへども、こゝに注してその居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。 |
一ツ所に橋を三所架せし故にしか呼べり。北八町堀より本材木町八丁目へ渡るを弾正橋と呼び、(寛永の頃今の松屋町の角に、島田弾正少弼やしきありし故といふ。)本材木町より白魚屋鋪(やしき)へ渡るを牛の草橋といふ。又白魚屋鋪より南八町堀へ架するを、真福寺橋と号くるなり。 |
箱崎の南にあり。(町数今十八町ばかりあり。)昔雄誉霊巌和尚、この地の海汀を築き立つてゝ梵宮を営みて、霊巌寺と号く。(依つて後世、霊巌島といふ地名起れり。初めは江戸の中島とよびしとなり。『東海道名所記』に、れいがん島も江戸の地をはなれて、東の海中へ築き出したる島なりと云々。)後世寺を深川へ移されて、その跡を町家となし給ふといへり。故にこの地の北の通りより茅場町へ渡る橋を、霊巌橋と号けたり。 |
南北へ凡そ八町ばかりもあるべし。伝へ云ふ、寛永の頃、井上・稲富等大筒(おほづつ)の町見を試みし所なりと。或いはこの出州(です)の形状、その器に似たる故の号なりともいへり。(白石先生の説に、この地は明暦火災後に、桑山伝兵衛某を奉行として、築(つ)き出されしとなり。又ある家珍蔵の旧図に、新出洲と記せり。)今は薪・炭・石などの問屋多く住せり。 |
半井 卜養
打ち出づる月は世界の銕炮洲玉のやうにて雲をつんぬく |
佃島にあり。祭る神、摂州の住吉の御神に同じ。神主は平岡氏奉祀す。
正保年間摂州佃の漁民に、初めてこの地を賜はりしよりこゝに移り住む。
本国の産土神(うぶすな)なる故に分社してこゝにも住吉の宮居を建立せしとなり。(摂州佃村は、西成郡にあり。『古今集』にたみのゝ島とよめるはこれなり。かしこにも住吉明神の宮居ありて、神功皇后三韓征伐御帰陣の時、その地に御船の艫綱をかけ給ひしより已降(このかた)佃村の地に御船の鬼板を伝へ、いつき祭る事、千有余年なりといへり。当社はこの分社たり。)毎歳六月晦日名越祓修行あり。(例祭は毎歳六月廿八日・廿九日両日なり。人々群集す。) 逍遥院実隆公住吉奉納和歌十首の題を詠じて奉りし中に |
江上月 | 戸田茂睡 |
この浦の入江の松に澄む月のみなれそなれて幾秋かへむ |
名月やこゝ住吉のつくだじま | 其角 |
同所川を隔てゝ北の方にあり。俗に築地の門跡とよべり。(或人云ふ。この地は明暦四年に仰せの事ありて築く所なりといえり。)一向派にして京都西六条よりの輪番所なり。(宗派のもの、これを表方といふ。)塔頭五十七宇あり。始め横山町二丁目の南側裏通りにありしを、明暦大火の後この地に移さる。准如上人を当寺の開祖とす。(『江戸名所記』に、神祖御在世の時より京都西本願寺の末寺を立てられ、宗流を汲む輩(ともがら)を勧めらるゝと云々。白石先生云く、善養寺といふ一向僧、東本願寺の建立を見て、て、公へ願ひて立つる所なりとぞ。『和漢年契』に、延宝八年庚申西本願寺立つとあり。本尊阿弥陀如来は、聖徳太子の彫像にして、泉州堺の信證院よりうつす。毎年七月七日立花会、十一月廿八日開山忌にて、七昼夜の法会修行があり、これを報恩講と云ふ。又俗間御講と称す。(塔頭成勝院に、俳仙杉風翁の墳墓あり。) |
大通り筋出雲町と芝口一丁目との間にかくる。正徳元年辛卯朝鮮人来聘の前、宝永七年庚寅この所に新たに御門を御造営ありて、芝口御門と唱へ、橋の名も芝口橋と改められしが、享保九年正月廿九日の火災に焼亡するの後は、復旧(いにしへ)の町屋となされた。 この川筋の東、木挽町七丁目と芝口新町の間に架(わた)せしを汐留橋といふ。 |
広度院と号す。関東浄家の総本寺、十八檀林の冠首にして盛大の仏域たり。百一代後小松院の御願にして、開山は大蓮社酉誉上人、中興は普光観智国師なり。(十八檀林は、武・総・常・野等に存在す。阿弥陀仏六八本願の中、第十八を以つて最勝とするに因み、御当家御称号、松平氏の松や千歳を閲歴し、能く雪霜にをかされず、又君子の操ありて、しかも太夫の封を受く、その字や木公に従ふ、細かにわかつときは十八公なり。依つてこれを弥陀の十八願にかたどり給ひ、精舎十八区を建てゝ永く栴檀林とし、多く英才を育して法運無窮の謀を設けたまひ、御子孫永く安からん事は、霜雪の後、松樹独り栄茂する如くとの盛虜に従ひ、源家の御代を、浄家の白旗流義により、千代万代までも守護し奉るべき旨を表し給ふなりとぞ。以上『浄宗護国篇』『新著聞集』等の意を採摘す。) 本堂本尊、阿陀如来。(恵心僧都の作にして、座像御長四尺ばかりあり。或は云ふ、仏工運慶が作なりと。) 額(三縁山)廓山上人真蹟(上人は当寺第十三世なり。甲州の産にして、高坂弾正の子なりといへり。) |
済海寺と同じ隣の土岐侯の邸の地、その旧跡なりといひ伝ふ。(山岡明阿云ふ、按ずるに今の地は海辺にて、しかも岡の上なれば、『更級日記』にいへる所にかなはず。若しいよいよこの寺にてあらば、昔は外にありしを、後にこの所へうつせしなるべしと云々。 |
宝永七年庚寅、新たに海道の左右に石垣を築かせられ、高札場となし給ふ。(その初めは同所、田町四丁目の三辻にありし故に、今もかの地を元札の辻と唱ふ。)この地は江戸の喉口なればなり。(田町より品川までの間にして、海岸なり。)七軒と云ふ辺は、酒旗肉肆海亭をまうけたればば、京登り、東下り、伊勢参宮等の旅人を餞(おく)り迎ふるとて来ぬる輩(ともがら)、こゝに宴を催し、常に繁昌の地たり。後には三田の丘綿々とし、前には品川の海遥に開け、渚に寄る浦波の真砂(まさご)を洗ふ光景などいと興あり。 |
海道の右にあり。野州富田の大中寺に属す。曹洞宗。江戸三箇寺の一員たり。(橋場総泉寺・芝青松寺・当寺等なり。)坊舎三宇、学寮九宇あり。当寺は往古(そのかみ)慶長年間、台命を奉じて、門庵宗関和尚、外桜田の地に創建する所の禅刹なり。後、寛永十八年辛巳、再び命ありて、寺を今の地に移したりといふ。本尊釈迦如来は、座像二尺ばかりあり。脇士は文殊・普賢なり。総門の額『萬松山』の三大字は、華僧閔(みん)の沙門道霈の書にして、康熙辛酉孟冬上浣と記せり。 当寺は浅野家の香花院にして、其家累代の兆域あり。又浅野内匠頭長矩及び義士四十七人の石塔あり。方丈より南の丘の半腹にあり。傍に当寺住僧建つる所の石碑あり。其旨趣を注す。二月・三月の四日、及び正月・七月の十六日等には、英名を追慕して、こゝに集ふ人少からず。又当寺に義士等の遺物を収蔵する事多し。 元禄十四年三月十四日、浅野内匠頭長矩、吉良上野介義英を刃傷に及ぶにより、長矩に死を給ふ。後その家の長臣大石内蔵助良雄、本国播州赤穂に在りて、君の讐には倶に天を戴くべからずと云ふの義により、血盟を以つて同志の者をかたらひ、終に元禄十五年十二月十四日、讐家に至り、義士四十七人、義英の所在を捜して、其首級を得、当寺に至つて、亡君の墓前に祭るの後、誅を待つて、翌十六年二月四日自殺せし事は、諸書に詳なるを以つてこれを省く。 |