旅のあれこれ


明暦の大火

明暦3年(1657年)の大火〜振袖火事〜

 本妙寺が火元とされている、原因は諸説ある。この大火後、幕府は防火対策を中心に都市計画を打ち出し、文京区の地域には寺社、武家屋敷などが多く移転してきて、漸次発展することとなった。

 江戸城の天守閣は明暦の大火で、飛び火により全焼。以後、再建されなかった。

 慶安4年(1651年)、浅草本願寺は神田に創建。明暦の大火により焼失し、浅草に移転。文化3年(1806年)3月4日、火災により焼失。文化7年(1810年)11月16日、東本願寺上棟。

 元和3年(1617年)に蘆の繁茂する湿地を埋立して造成された日本橋(現在の日本橋人形町)に吉原遊廓が誕生。明暦の大火で焼失し、浅草に移転。これが新吉原である。

 江北山清水寺は徳川家康の入府で江戸城の修築のため馬喰町に移り、さらに振袖火事の後、台東区松が谷に再興された。

 中央区の霊巌寺は振袖火事で焼失、江東区に移転した。

 日本橋馬喰町の妙福寺は振袖火事で本堂等が焼失、浅草に移転。

 天正19年(1594年)、吉祥寺は現在の水道橋一帯に移った。明暦の大火で類焼。文京区本駒込に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。

 四代将軍徳川家綱は、明暦大火の身元不明、引取り手のないを葬るため、本所両国の地に「無縁塚」を築き、念仏堂が建立された。回向院の始まりである。

 振袖火事では橋がなくて逃げられずに多数の死者が出た為、大火のあと、両国橋が架けられた。また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とし、これが広小路となった。

 明暦の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、寛文元年(1661年)川船番所は中川口に移転。以後中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通称された。

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