明治19年(1886年)10月8日、東京芝区高輪に生まれる。 明治33年(1900年)4月、東京府第一中学正則科に入学。 明治35年(1902年)4月、進級の際に落第。攻玉社中学校に転校、4年に編入された。 明治38年(1905年)、吉井勇は新詩社に入社。 明治40年(1907年)7月28日から8月27日まで、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人で九州西部を中心に約1ヶ月の旅した。 明治41年(1908年)4月27日、石川啄木上京。5月2日、石川啄木は与謝野鉄幹に連れられて観潮楼歌会に出席。初めて吉井勇と逢う。 明治41年(1908年)10年29日、石川啄木は吉井勇と共に北原白秋を訪ねる。 明治41年(1908年)12月、新詩社を脱会し、北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと「パンの会」を結成。 大正2年(1913年)10月、吉井勇は「海水館」に寄宿した。この頃久保田万太郎を知る。 大正11年(1922年)10月1日、知恩院で市川左団次一座の野外劇「織田信長」が行なわれる。吉井勇は後援のために赴いた。 大正11年(1922年)10月4日、永井荷風は吉井勇と島原の角屋で飲む。 |
午後吉井君と島原の角屋に飲む。夜九時半の汽車にて歸京の途につく。此夜月またよし。 |
昭和4年(1929年)12月、九条武子三回忌の記念として『白孔雀』(吉井勇編)出版。 昭和5年(1930年)、渋民村を訪れる。 昭和6年(1931年)5月、初めて土佐に遊び、伊野部恒吉を知る。 昭和8年(1933年)、伊予を経て土佐に入り、韮生の山峽猪野野の里に帯留。 昭和9年(1934年)4月、吉井勇は再び韮生の山峽猪野野の里を訪れる。 昭和8年(1933年)、吉井勇は妻と離別。 昭和9年(1934年)4月、吉井勇は再び韮生の山峽猪野野の里を訪れる。 昭和9年(1934年)11月、土佐に入り猪野々(香北町)に廬(渓鬼荘)を結んで隠棲。 昭和10年(1935年)3月、久々に東京へ帰る。 昭和11年(1936年)4月11日、渓鬼荘を発ち四国路を歩く。琴平、多度津、丸亀、高松などに遊んだ。 |
昭和十一年四月十日、朝八時頃渓鬼荘発。猪野々口より土佐山田まで省営バス、それより汽車にて午後一時頃琴平着。山西岩男君に迎へられて金刀比羅宮に参詣す。石段の高きことには閉口したれども、本殿にて森寛斎の絵を見たるは、思ひがけざる眼福なりき。 |
昭和11年(1936年)5月2日、高浜から瀬戸内海の島を巡る。大三島、伯方島、生名島(いきなじま)、因島を経て、5月13日、尾道に着く。 昭和11年(1936年)5月24日、広島ではからずも小杉放庵に邂逅、一緒に比治山、広島城などを見る。 昭和11年(1936年)6月8日、下関から門司に渡る。10日、高浜虚子が欧州旅行の帰途、関門海峡を通過する。 昭和12年(1937年)6月、今治から伯方島を訪れ有津(あろうず)の宿に滞在。 昭和12年(1937年)10月、高知市築屋敷に住む。国松孝子を迎え、新婚生活に入った。 昭和13年(1938年)10月、土佐から京都に移る。 昭和20年(1945年)2月、富山の八尾町に疎開。 昭和23年(1948年)、京都知恩院で知り会った法然寺の老師を訪ねる。 昭和24年(1949年)、丸亀城に吉井勇の歌碑を建立。 昭和24年(1949年)、法然寺に梵鐘が鋳造され、吉井勇の歌が刻まれている。 昭和25年(1950年)4月、吉井勇は久保田万太郎等と伊勢路の旅をする。 昭和27年(1952年)5月26日、長崎市の聖福寺でじやがたらお春の碑の除幕式。 昭和27年(1952年)5月28日、吉井勇は孝子夫人と共に天草を訪れる。 昭和29年(1954年)5月、諫早市の諫早公園に「螢塚」建立。吉井勇も除幕式に参加した。 昭和30年(1955年)6月、山口市の湯田大橋に「螢塚」建立。吉井勇は除幕式に湯田を訪れた。 昭和30年(1955年)6月、札幌市の丸善で個展を開催することになり北海道に旅をした。 昭和31年(1956年)5月、阿蘇に遊ぶ。 昭和32年(1957年)5月25日、京都を出発、高知に向かう。 昭和32年(1957年)5月27日、吉井勇は龍河洞を見物する。 昭和32年(1957年)10月、香美市の龍河洞に歌碑を建設。 昭和34年(1959年)3月、長崎を訪れる。 昭和34年(1959年)6月、吉井勇は土佐に赴き、伊野部邸の歌碑を見る。宇和島、道後を巡って帰京。 昭和34年(1959年)、吉井勇夫妻は播磨路を巡る。 昭和34年(1959年)12月3日、博多に赴き、稲佐山の歌碑除幕式に出席。 昭和35年(1960年)11月19日、74歳で没。 |
京都祇園建仁寺にて、吉井勇告別式 案のごとくしぐるゝ京となりにけり
『流寓抄以後』 |