旅のあれこれ


東久世通禧ゆかりの地

幕末の朝廷で尊皇攘夷を唱え活躍。

 天保4年(1833年)11月22日、東久世通徳(みちなる)の子として京都に生まれる。幼名は保丸。

 文久3年(1863年)、「八月十八日の政変」によって、朝廷の実権が尊皇攘夷派から公武合体派に移ると、長州へ逃れた。

 元治元年(1864年)5月1日、東久世通禧、四条隆謌の2人が龍泉寺に移る。

 元治元年(1864年)7月19日、蛤御門の変(禁門の変)。

 元治元年(1864年)7月22日から24日にかけて、三条実美、三条西季知、四条隆謌、壬生基修、東久世通禧の五卿は御手洗の竹原屋(庄屋)に滞在。

 元治元年(1864年)12月15日、高杉晋作七卿落ちで京を逃れた公卿のうち五卿を太宰府に移送すると知り、長州藩俗論派打倒のために功山寺で挙兵した。

 慶応元年(1865年)2月、太宰府の延寿王院に入り、慶応3年(1867年)12月まで滞在した。緊迫の中にも武蔵寺や二日市温泉に憩いを求めた。

武蔵寺の歌碑


   武蔵寺に詣て    通禧

藤なみのはなになれつゝ宮人の
むかしのいろにそてをそめけり

 慶應元年(1865年)5月25日、坂本龍馬は太宰府で三条実美、東久世通禧等五卿に会う。

 明治2年(1869年)8月25日、第2代開拓使長官に任命される。



 明治4年(1871年)12月23日、岩倉使節団の理事官のひとりとして出発。

 明治9年(1876年)6月、明治天皇東北御巡幸の折、お供した東久世伯爵は「衣笠の松」で「ふたたびも君にすすめしかけ清み古井の水のむかしおもゆる」と歌を詠んだとされている。

 明治12年(1879年)5月、芭蕉の句碑を建立。従三位東久世通禧筆。



早乙女にしかた望まむ信夫摺

 明治21年(1888年)、枢密顧問官。

 明治23年(1890年)、貴族院副議長。

 明治24年(1891年)6月、芭蕉の句碑を建立。東久世通禧書。



花さかり山は日ころの朝ほらけ

 明治25年(1892年)、枢密院副議長。

 明治26年(1893年)、芭蕉二百回忌に蕉林社は芭蕉の句碑を建立。東久世通禧書。



本とゝきすまねくか麥のむら尾は那

 明治42年(1909年)秋、東久世通禧は太宰府天満宮参詣の帰路、黒崎の櫻屋に滞在して記念に松を植えて歌を詠んだ。



さすらひし昔の跡のしるしとて植し小松の千代に栄えよ
   通禧

明治45年(1912年)1月4日、歿。

福島県桑折町の旧伊達郡役所に東久世通禧の詩碑がある。


桑折駅にて霊山を望み感有り

海内妖氣侵闕廷
   海内の妖氣闕廷(けつてい)を侵す
感君殉節姓名馨
   君に感じ節に殉じたる姓名馨(かんば)
鑾輿今日経過路
   鑾輿(らんよ)今日経過の路
仰見霊山千古青
   仰ぎ見る霊山千古青し

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