紀行・日記



『東路露分衣』(内山逸峰)

明和元年(1764年)、内山逸峰の江戸までの旅。

 越後国市振といふ所に、人多く集りて、世渡るわざにいそがわしき有様を見て、

   浦人の袖ほす間なくけふの市ふり捨得ぬもよしや世中

 越後国親しらずといふ磯を過るとて、

   いひそめし人やとがめんこの磯の親しらずとは罪ふかき名を

笹野観音堂


 出羽の米沢にいたる入口、笹野といふ所に観音まします。人多くまうでぬるまゝ、われもまうでゝかへり、米沢のかたへ行に跡よりよしありげなる人独きたりて、われをいかなるものぞと問れしに、都方より出て歌枕尋る者也といひければ、いとゆかしげにあい(ひ)しらひて、酒うる家にいざなひて、われにさけなどくれてしばしかたりあふうち、此人われを試んとにや、いふは、此あるじは祝ひぬる事をよろこぶ人也、祝歌を一首よみてとこのまれけり。酒うるあるじは林崎氏のよし也。

   みな人の一つ心にもてはやしさき匂ふ菊や幾千代の秋

とよみて書しるしとらせければ、よろこび思ひけるにや、猶よろしきさけなどとうでゝくれたり。

 けふ、出羽国山の寺といふにまうでゝ、

はるばるとたづね出はの奥山の寺こそ冬はあはれまされり

 此御寺は慈覚大師、比枝(叡)の山をうつして開き給へるとかや。宝珠山立石寺といふ山の姿、岩ほのけしき、言の葉にもつきたり。所々見廻りて時を移し日すでに暮たり、此の山の境内にとまる。

 末のまつ山にて、

   越ぬべき浪こそ見えね末の松山かぜばかりを(お)とにまがひて

多賀城碑覆堂


 右壷の石文は、此城跡より一二丁斗も辰巳とおぼしきかたに当りてあり。碑を堂に入置て、とざしきびしくして、ひまより文字などは見ゆるやうに作りなしたり。石の高さ六尺余、はゞ三尺斗也。

      去京一千五百里
      去蝦夷国界一百二十里
多賀城 去常陸国界四百十二里
      去下野国界二百七十四里
      去靺鞨国界三千里

此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置也天平宝寳六年歳次壬寅参議東海東山節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝狩修造也(※「狩」は獣偏に「葛」)

   天平宝字六年十二月一日

 明る日はやく起出て、先塩がまの御社にまうでゝ見奉れば、おもひしよりはを(お)ごそかにして、宮居は三社ぞならび給ひける也。所のものゝいひ伝ふるは、此御神は、日の本にしてしほをやく事をはじめてをしへ給ひし御神なるよしをかたる。塩をやき給ひしかま也とて朽せず今に残りて有ける也。塩竈の御社にて、

   やきそめしめぐみかしこし塩がまの残すけぶりや世々のにぎはひ

 昔此塩釜の浦を夢にきたりて見し事を思ひ出て、

   たどりきて遠きをしるや昔わが通ひし夢はちかのしほがま

 此七曲りをくだれば、長さ七八間斗成橋あり。緒絶の橋といふ也。橋板を四五寸程宛、間をあけて懸置たり。渡り見るにいと危く覚ゆる也。

   危う(ふ)さを忘れてわたるみちのくのをだへ(え)のはしと名にはたつとも

医王寺内門


 同く近きあたりに佐橋村といふ有。そこに瑠璃光山医王寺とて真言宗の寺あり。外に薬師堂有。佐藤庄司が守本尊也、弁慶が手跡の金(紺)紙金泥の大般若経一巻、并に笈も有。

 こゝかしこ見あるきて貝田といふ所へ行に、西の方に木もなき丸山有、爰を伊達の大城戸ともいひ、又下紐の関とも云。すなはち貝田にとまる。下紐の関にて、

   笹枕よなよなかはる旅人の心もとけぬ下紐の関

 此大木戸の西の方に石母田村といふ有、此村の領の内に義経の腰懸松とて有。此松の色、常の松よりはみどりふかく、紫もこもりてしげれり。根もとより四五尺斗上り相生になりて、枝四方へ栄えたるが、ひろさみ□ひろばかりにして、土より高きこと三四尺には過ず、下をはふ(う)て何れの枝にも腰を懸ぬべき程に見えたり。

 それよりも鯖湖の御湯といふにやどる。此出湯は歌枕なれば、わざと求めてぞとまりける。身のいたみの有けるも出湯あみければ、よろしくぞ覚えければ、

   やむをめぐむ神こそまさめいざやさばこのみゆる山の奥をたづねん

 明るひ、安達郡黒塚を見ばやとたどりつゝやゝ至てみれば、ひろさ十四五間四方にして、高さ三四丈もあらんか、のこらず大岩にて、あゐ(ひ)だあゐ(ひ)だをくゞりありくやうなる所もあり。昔は岩屋にて有しが、今は破れうがちたる物と見えたり。

   黒塚やめに見えぬ鬼もこもるらんむかしを残す岩のしたかげ

   苔むしし岩かげくらき黒塚やさこそは今も鬼こもるらん

 明る朝、鹿島太神宮へ奉る。

   いつとても神のこゝろに咲はなの香島かしこしよもの国まで

   かしこしないま安国と治まるもたけみかづちの神のいさをし

 香島の御手洗の水のいたりて清らかなるを見て、

   見るまゝに濁る心も澄渡る香島の神のみたらしの水

 霜月廿日の暮がたに息栖大明神へまうでて、今夜は此所にやどる。明る朝、をしほゐの水といふを見しに、磯よりはたひろ斗沖の方へ出て、塩(潮)海の中より清水のわき出る也。伊勢の国領に忍穂井(おしほゐ)といふは有ときけど、ひたちとはきかね共、先打むかふ所いと珍らかなれば見るに任せて、

   わたつみのうへは塩(潮)にて底きよみ人こそしらねを(お)しほ井の水

 明る朝香取へわたるに、小見河といふ所迄舟にてわたるに、波風もなく舟着にけり。是よりは下総国香取郡也。此あたりを堀越の裏といふ歌枕なり。折ふし風あらくて沖に舟も見えねば、

   風あらく舟の見えぬや沖津波たちのぼりしうらみ成らん

 霜ふり月廿一日、下総国香取太神宮にて、

   かしこしな年月とを(ほ)く経津主の世の人めぐむ神のみこゝろ

 明ればしはす三日、下野国高田村専修寺にて朝飯をたうべて、それより下総国結城郡結城の里へと心ざすに、此里のうしとらの方五六丁斗に、月輪禅定門兼実公の姫君、玉日の宮のはか有。其あたり近くに玄能和尚の墓も有。

 此里の西町と云所に浄土宗十八檀林の内、弘経寺といふ寺に金銀をちりばめたる鐘楼有。高さ一丈八尺、三間四面、柱残らず金の柱にて、所々はげたり。柱毎に色々の草花などほりこみ、金を懸たり。外のめぐりには十二支のかたちをほりあげにして、悉くみな金を置たり。

 九日の朝今市を出、日光にいたる。文そえ(へ)らるゝ人ありて、下鉢石町星野藤橘といふ人の許に宿る。明れば師走十日、日光の宮へまうで奉らんといへば、宿のあるじより家人にいひしめして、所々くはしくしるべいたせよとの事にて、いとよく教え(へ)てければ、くまぐま残る方なく見廻りけるもいとうれし。まづ日光の御社へよみて奉る。

   天地とゝも成色や久堅のあさ日にひかる山の神垣

 山菅の橋を見てけるに、言の葉につきたる色どり也。

   色どりをみがきそへつゝ冬枯も見えぬゆきゝの山菅の橋

 だいや河ときけど歌枕にもあらねば、折句にてよめる。

   たぎる瀬はいる矢もを(お)そき山川のかはらぬながれわたるうれしさ

 寂光の滝にてよみ侍りける。

   音はなを(ほ)増り社(こそ)すれ山ふかみしづかにひかる滝の名にして

浅草寺


 明る十六日、浅草の観音にて、

たがつけし誓ひ千尋の海よりも深きめぐみの名をばあさくさ

 湯島にて、

   にしのうみ光り余りて武蔵野やはてしなき迄天みつの神

 日ぐらしにて、

   さとの名の日ぐらしをけふ尋ねきて猶をしまるゝ冬のゆふかげ

 角田川にて

   よつの海豊かなる世にすみだ河渡れどぬれぬ瀬々の白波

 梅若の廟

   わかみどりちるもいとはじ青柳の糸永き世に名こそたえせね

紀行・日記