明治25年(1892年)、幸田露伴は東京から仙台・盛岡・野辺地を経て恐山に向かった。 |
横浜町の国道279号はまなすライン沿いに幸田露伴と大町桂月の文学碑があるというので、行ってみた。 |
茫々たる原中を |
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左に断たえず海を眺めつ |
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茫々たる原中を |
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歩まするに菖蒲、ハマナス遠く近くに咲きにほひ |
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さまざまの禽の歌う |
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聲長閑く立てる坐れる |
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眠れる當歳二歳三歳以上の馬どもの各が |
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じし自由に振舞へる |
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も我らの眼には |
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新し |
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幸田露伴全集第14巻(易心後語) |
「菜の花が香り、蛍が飛び交い、ハマナスの花が咲きにおうふるさと横浜」 |
私たちは昔日の姿をとりもどすために、ハマナスを植裁し、露伴の文学碑を建てました。 |
大正10年(1921年)3月20日、大湊軽便線として野辺地駅−陸奥横浜駅間開業。 大正10年(1921年)9月25日、陸奥横浜−大湊間を延伸開業し全通。 大正11年(1922年)9月2日、大湊線に改称。 大正11年(1922年)9月9日、大町桂月は列車で野辺地駅から田名部町へ。 |
一沼に馬むれ十里尾花かな 東北本線の野辺地駅より乗換へて、田名部に行く途中、左は野辺地湾、右は一面の草原、四つ五つ駅はあれども、人の里らしからず。木柵長く続きて、放牧の馬、秋に肥えたり。恐山一帯の郡山、島かと見えしが、陸続きにて、いつしか釜伏山下に達し、田名部に宿す。維新の昔を思ふも憐れや、若松城陥ると共に、二十三万石の会津の藩主、僅か三万石に減ぜられて、茲に斗南藩を開きける也。
「恐山半島の大断崖」(田名部)
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一沼に馬むれ十里尾花かな |
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大正十一年九且九日 |
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桂月 |
東北本線の野辺地駅より右に分岐すれば、汽車は絶えず野辺地湾に沿ふ。横浜を始め、部落いくつもあるが、概して薄生えたる砂原、一望十里、放牧の馬散在して嘶きあふ。内地に珍しい光景也。
紀行文−『陸奥の海岸線 八 恐山』より抜粋
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平成12年(2000年)9月9日、道の駅「よこはま」指定、菜の花フェスティバル10周年、並びに町制施行40周年を記念して建立された。 |